歳を重ね、老いを感じる年齢に達しますと、若かりし頃には考えもしなかった事柄が、ふっと思い浮かび、じっと考えたりするようになります。
例えば…
「俺の人生とは、いったい何だろう?」
「私は、何をしてきたのだろう? 何を残せたのだろうか?」
「世の中のため、社会のため、何ができただろうか?」
「残された人生、何をすべきか?」
などなど。
どちらかと言えば、後ろを振り返るようなことが、多くなっているように思います。そして、どこか寂しい心持ちにもなったりします。
若かりし頃、今ではすっかり死語となった“企業戦士”などと呼ばれ、それを誇りとして「会社を、いや日本経済を背負っているのは俺だ」などと意気込み、ギラついた目付きをして働いていた方もいらっしゃるのでは…。しかし、今ではすっかり眼差しも柔らかくなり、心穏やかに、何事にも余裕を持って対処できるようになっているのではないでしょうか。
そんな自分に気付くと「あぁ~歳をとったなぁ」とか「俺も人間、丸くなったもんだ」などと、ひとり苦笑いをすることもあったりして…。
でも、こうした心の余裕というものは、どこから生まれてくるのでしょうか? 経済的なゆとり、気が長くなった、気力の衰え等々、様々な理由が考えられるのですが、大きな理由として、若い時に比べ「我欲」というものが、心から削げ落ちてくるからではないでしょうか。
自分自身の長い人生を振り返ってみた時、悔いることも多く、何かをして償いたいという気持ちも醸成されるでしょう。そうした心から、自分のことよりも他人の事を気遣い、思いやる気持ちが強くなってくるように思います。これもまた、若かりし頃には、決して感じることのない気持ちであるように思います。
■渋沢栄一の心を読み解く
今回取り上げました渋沢栄一の言葉、我欲が心から徐々に削げ落ちてくるサライ世代になったればこそ、深く理解できることであり、また実際に振る舞うことができるのではなかろうかと思いますが、いかがでしょうか?
■渋沢栄一、ゆかりの地
第四回目の「渋沢栄一、ゆかりの地」では、世界遺産として有名な「富岡製糸場」をご紹介します。
富岡製糸場は、明治5年(1872年)に主要な輸出品であった生糸の品質向上と増産のため、明治政府により官営として設立されました。この時、中心となって建設を進めていったのが、農家出身で養蚕に詳しかった栄一でした。
彼は、自身の従兄弟・尾高惇忠を初代工場長として任命。同郷である韮塚直次郎は、煉瓦製造や建築資材調達のまとめ役を務めました。また、フランスから生糸の専門家ポール・ブリュナを雇うなど、栄一は様々な角度から日本の近代産業の基盤を形作ったのです。
国の産業を変える大規模な計画には、多くの人の手が必要だったことでしょう。同郷の仲間や海外の専門家など栄一の周りに優秀な人物が集ったのは、彼が「我欲」を捨て、心に余裕を持っていたからではないでしょうか? 自己の利益を忘れ、ただ国の為に物事に向き合う彼の姿は、それだけ魅力的なものだったと思われます。
心の余裕が、人への気遣いや思いやりを生む。人との繋がりが難しくなっている今だからこそ、今回ご紹介した言葉が一層価値あるものに感じられます。
「富岡製糸場」
住所:群馬県富岡市富岡1-1
アクセス:上信電鉄上州富岡駅から徒歩約15分
開館時間:9~17時(入館は~16時30分)
開館日:年末(12月29日から31日まで)
入館料:1,000円
肖像画/もぱ
文・構成・アニメーション:貝阿彌俊彦・豊田莉子(京都メディアライン)
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