文/砂原浩太朗(小説家)
細川ガラシャ(1563~1600)の名は、つねに悲劇的な色合いを帯びている。名門細川家の嫁となりながら、実父・明智光秀の謀叛でおおきく人生が変わってしまう。その最期も痛ましいというほかないものだが、それでいて、彼女の存在が歴史の一局面を左右したことも事実である。乱世に翻弄された女人の生涯をあらためて辿ってみたい。
名家の嫁から謀叛人の娘に
ガラシャの本名は「たま」ないし「玉子」という。明智光秀の次女として生を享けた。母は光秀の正室だった妻木氏で、名は熙子と伝えられる。両親の生年はともに不明だが、父・光秀に関しては1516年ないし28年説がある(本能寺のとき67歳、または55歳)。彼の年齢については、拙著『逆転の戦国史』(小学館)でも考察したが、前者の場合、たまは48歳のとき授かった子ということになる。これ自体に不思議はないが、となると妻・熙子の年齢は、少なくともひとまわりほど年下である可能性が高い。結論が出せるわけではないが、このようなことも光秀夫婦の年齢をさぐる一助にはなる。
さて、たまは父の主君・織田信長の命によって、1578(天正6)年、16歳で細川忠興に嫁ぐ。同い年の忠興は、父の盟友・細川藤孝(幽斎)の嫡子だった。明智と細川は、室町幕府最後の将軍・足利義昭が信長のもとへ迎えられるにあたり、ともに力をつくした仲。折しも丹波攻め(第36回参照)では藤孝が光秀の与力(補佐)をつとめており、信長としては、両家の結びつきをさらに強めようと考えたのだろう。
藤孝の出自についても諸説あるが(第35回参照)、名門細川家の名を掲げられる立場にあったことは間違いない。乱世のただなかとはいえ、たまはふたりの子にもめぐまれ、名家の嫁として不自由ない日々を過ごしていたと思われる。
が、4年後、彼女の運命はおおきな暗転をとげる。いわずと知れた「本能寺の変」である。父・光秀が信長を討ったため、たまは一夜にして謀叛人の娘と呼ばれるようになってしまった。
満たされぬ日々
光秀は変後、細川家に助力をもとめたが、藤孝はこれを拒絶する。剃髪して幽斎と号し、家督を忠興にゆずった。同時に、たまは味土野(みどの。京都府京丹後市)に幽閉される。今なお山深い土地であり、いかにも世をはばかる女人が隠れ住むのにふさわしいと思える。一説には、ここに明智家の飛び地があったため、実家へもどした形を取る意図もあったという。このとき第3子をみごもっていたたまは、この地で出産の日をむかえる。侍女たちが付き従っていたとはいえ、その心細さは容易に推し量れる。
周知のごとく、光秀は山崎の戦いで羽柴(のち豊臣)秀吉に敗れ、敗走のさなかに横死を遂げる。たまの心もちは想像するよりほかないが、細川家の記録には、彼女が父の所業を恨んでいたという話が記されている。またその一方で、父の仇である秀吉との面会を命かけて拒んだともいう。相反する心理とも思えるが、この場合、どちらの気もちもあるのが自然だろう。
たまが秀吉の赦しをえて細川家へもどったのは、変の2年後である1584(天正12)年。ふたたび平穏な暮らしがはじまったと思いたいが、そうはならなかった。たまは夫・忠興から外出を禁じられ、事実上、大坂屋敷や居城の宮津(京都府宮津市)に幽閉された状態で暮らしていたとされる。やはり光秀の娘であることを憚ったとも考えられるが、赦しは出ているのだから、いささかやりすぎの感はまぬかれない。忠興がたまに偏執的な愛情をいだき、束縛していたとする見方が有力である。
よく知られた逸話だが、下僕が所用あって、たまのもとへ赴こうとしたところ、見咎めた忠興から手打ちにされた。それを見て、たまが平然としていたため、「蛇のような女だ」と吐き捨てると、「鬼の女房には蛇が似合いでござりまする」と返されたという。
似たような話はほかにも残っており、どれも忠興の暴虐と夫婦仲の行き詰まりを暗示している。彼は千利休の高弟でもある茶人で武将としても有能な人物だが、前述した丹波攻めの折、降伏した敵をなおも攻撃しようとして光秀に諫められている。たまとの遣りとりには誇張もふくまれているだろうが、かなり気性のはげしい人物だったことはたしかと見ていい。少なくとも、たまが夫のきびしい監視下にあり、心たのしまぬ日々を送っていたのは事実と考えてよいのではなかろうか。
【ガラシャ~信仰に生きて。次ページに続きます】