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文/砂原浩太朗(小説家)

地震前の熊本城

細川藤孝(幽斎。1534~1610)は、人間としてひとつの完成形だと思える。たとえていえば、名工が多大な時間と労力をかけて作りだした陶器のようなおもむきさえある。乱世にあって取るべき道をあやまらず、現代にまでつながる細川家の礎を築いた(元首相・護熙氏 は子孫)。戦国きっての文化人であり、和歌・連歌のみならず、源氏物語などの古典にも通じている。くわえて、茶道・音曲・刀剣鑑定から料理まできわめたというから驚く。さらには武将としても有能。関ヶ原の折、西軍を2か月にわたって足止めした話(後述)は名高いし、ひとりの武人としても剣や弓に秀でていたとされる。戦国にあって唯一無二ともいえる男・細川藤孝の生涯をたどる。

藤孝は将軍の落胤?

藤孝は1534年の生まれだから、織田信長とは同年齢となる。足利12代将軍・義晴の側近である三淵晴員(はるかず)の次男で、母は学者として名高い清原宣賢(のぶかた)の娘だった。母方の血筋が彼の文化的素養におおきくはたらいたことは疑いないが、その出生をめぐっては興味深い逸話がのこっている。母はもと将軍義晴の側室で、みごもったまま晴員が拝領、藤孝を生んだという。この話は、数ある落胤伝説のなかでも信憑性が高いものと見られており、事実とすれば、のち将軍となった義輝・義昭きょうだいの庶兄ということになる。

6歳のおり、名門細川家の一族へ養子入りする。じつは父もこの家から出て三淵へ養子にはいったものであり、藤孝は伯父の跡を継ぐことになった。ちなみに、この所伝に対し、藤孝の養子入りした細川はまったくべつの家系であるという説が近年有力視されているが、ここでは深追いしない。

1546年、義晴の嫡子・菊幢丸と同日に元服、菊幢丸は義藤(のち義輝)と名のり、翌日には13代将軍に就任する。藤孝という名はあるじから一文字たまわったもので、さいしょから将軍の側近としてキャリアをスタートさせたのだった。

明智光秀との出会い

だが、当時の将軍家は軍事力・財力ともにとぼしく、実力者・細川晴元とその家臣・三好長慶のあらそいに巻きこまれ、都から逃亡することもしばしばだった。藤孝もあるじ義輝に付きしたがい、流浪の歳月を送る。

三好家との和議がととのい、ようやく京に座を落ち着けた義輝だが、長慶没後の1565年、後継者である義継の急襲をうけ、討ちとられてしまう。このとき居城にいて難をのがれた藤孝は、奈良・興福寺に幽閉されていた義輝の弟・義昭(当時は覚慶)を手引きして脱走、各地を転々としたのち、越前(福井県)の朝倉義景をたよった。一刻もはやく上洛し、将軍位に就きたい義昭一党だが、朝倉にその意志はなく、失望の日々をかさねることとなる。

そのとき藤孝らに近づいたのが、明智光秀なる武士だった。美濃の出とされ、浪々ののち朝倉へ身を寄せた人物だが、織田信長の正室と縁があるゆえ、義昭との間を取りもとうという。この申し出を受け入れ、義昭は1568年の7月、信長のもとへ移る。この後の展開ははやく、9月に上洛、10月には征夷大将軍となっている。信長のすばやさには瞠目のほかないが、それを目の当たりにした藤孝もおなじ思いだったろう。

ところで、当時の僧侶がしるした「多聞院日記」という史料には、光秀が藤孝の中間(従者)だったという話が記されている。事実とすれば、上記のいきさつもおおきく変わってくるが、裏づけはとれていない。義昭の配下となった光秀が足軽待遇だったという史料も存在するから、ふたりの身分差があやまって伝えられた可能性もあるだろう。ここでは、そうした説があることだけ紹介しておきたい。

足利家との決別

ようやく将軍となった義昭だが、ほどなく信長との関係は破綻にむかう。ついには打倒織田の兵を挙げるが、敵するはずもなく追放に処されてしまう。このとき藤孝は義昭からはなれ、上洛した信長をみずから出迎えるなど、織田への支持を鮮明にしたのだった。彼自身、前述の落胤説を信じていたとすれば、おのれが生き残ることこそ、結果的に足利のためと考えたのかもしれない。

細川家の記録には、これに先立ち、信長とのあらそいを避けるよう、藤孝がたびたび義昭を諫めた記述が見られるが、多少言いわけじみた匂いがしないでもない。主君を捨てるための伏線という見方もあるだろう。

本能寺や関ヶ原に際しての行動にも共通することだが、彼のすごみは勝者を見極める目のみにあるのではなく、みずからの選択をはっきりと天下に示し、つらぬくところだろう。後代のわれわれはすでに結果を知っているが、渦中にある人びとは、先の見えぬなか、つねにいのちがけの決断を強いられる。それでいてぶれないというのは、簡単なことではない。藤孝の胆力は、なかでも並はずれたものといえる。

信長の配下となった彼は、あたえられた所領にちなみ、姓を長岡とあらためる。旧体制の名門であった細川の名を捨て、あたらしい時代に生きようとしたのだろうか。旧姓へもどしたのは嫡男・忠興の代となってからだが、本稿では以後も細川で統一する。

織田軍において、藤孝は明智光秀の与力(補佐)として丹波攻めに従事、丹後12万石をあたえられて宮津(京都府宮津市)に築城した。明智家との関係はふかく、1578年、信長の命により、忠興の妻に光秀の娘・玉(ガラシャ)を迎えている。ともに16歳の夫婦であり、忠興は玉に偏執的といえるほど深い愛着を抱いていたとされる。

【本能寺の変~生き残りを賭けた決断。次ページに続きます】

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