文/砂原浩太朗(小説家)

明智光秀公像 ( 亀岡市・南郷公園 )

丹波の攻略は、武将としての明智光秀(?~1582)を語るうえで、外せないものの一つである。このいくさを成功に導いたことで、彼の武名は大いにあがった。が、光秀にとっては、たいせつな人をうしない、自身の肉体を消耗した過酷な時期にもあたっている。4年の長きにわたった丹波攻めとは、どのような戦いだったのか。

なぜ丹波攻めが必要だったのか

まずは丹波の位置から確認しておきたい。現在の京都府および兵庫県にあたり、都がふくまれる山城国の西どなり。国ざかいも接している。のち光秀謀叛の折、明智軍が拠点とした亀山城(京都府亀岡市)も丹波国内の要地であり、ここから本能寺まで8時間ほどの行軍で辿りついているから、至近といってよい。こうしてざっと挙げただけでも、都を押さえるため欠くべからざる土地であることがお分かりいただけたのではなかろうか。

1568(永禄11)年、足利義昭を将軍位につけた織田信長は、室町幕府の庇護者として権勢を振るうこととなる。この時点で丹波の国人(地侍)たちは幕府にしたがい、政権の一部として機能していた。ところが周知のごとく、織田・足利の協力関係は早々に破綻、1573年には義昭が追放に処せられてしまう。これにともない、黒井城(丹波市)に拠る荻野(赤井)直正をはじめとする領主たちが信長から離反したのだった。捨ておけるはずもないが、ただちに丹波攻めを開始できたわけではない。義昭に与した朝倉・浅井両家をほろぼし(1573)、やはり幕府方として信長を追い詰めた武田信玄の子・勝頼を長篠・設楽(したら)ヶ原で破った(1575)のち、ようやく着手できたのである。この間は、小畠永明ら信長によしみを通じる国人衆を用いて反織田方を牽制していたと思われる。

光秀敗走す

前述の長篠役が1575(天正3)年の5月。信長は、はやくも翌月の書状に、光秀を丹波へ攻め込ませる計画を記している。武将としての能力を評価していたのだろう。だが、当の光秀が越前(福井県)で一向一揆の討伐に従事したため、実際の出陣は同年11月までずれ込む。丹波攻めはここからほぼ4年に渡るが、その間光秀は各地へ転戦をかさねており、丹波一国の平定に専念できたわけではなかった。スタートからして、そうした経緯を象徴しているともいえる。

丹波攻略にあたり、光秀はまず黒井城への攻撃を開始する。城主・荻野直正は「丹波の赤鬼」と恐れられた猛将で、赤井悪右衛門という名で知られている。隣国・但馬にまで武威を振るい、武田や毛利といった反信長勢力と密に連絡を取り合っていた。織田方からすれば、真っ先に叩いておきたい相手である。が、黒井城は堅固な山城で、ただちに落とすというわけにはいかない。攻撃をつづけているうち、翌1576年正月早々に異変が起こった。寄せ手の一翼をにない城攻めにくわわっていた八上城(丹波篠山市)の城主・波多野秀治が寝返ったのである。明智軍は総崩れとなり、光秀は居城の坂本(滋賀県)まで退却、丹波攻めは始めから大きな躓きを見せることとなった。

【悲痛なり、光秀~身は病、妻をうしなう。次ページに続きます】

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