月刊誌『サライ』で連載されている「半島をゆく」。直木賞作家・安部龍太郎氏が、全国の半島を巡って埋もれた歴史を掘り起こさんとする歴史紀行で、開始から6年半をこす長期連載になっている。かつては海運で栄えた半島の地で遭遇した知られざる歴史を紹介する。第1話は、中国秦の時代の徐福来航伝説をお届けする。
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日本がまだ弥生時代だった紀元前221年。中国では秦の始皇帝のもと、初めて全土を統一した政権が誕生した。今回紹介するのは、その時代の物語だ。
『史記』 には、始皇帝に不老不死の仙薬を手に入れるように命じられた徐福(じょふく)が、童男童女3000人を引きつれた大船団で中国を出航したことが記されている。
日本全国の半島を旅していると、徐福が来航したという伝説地が数多く残されている。歴史作家の安部龍太郎氏は、最新刊『日本はこうしてつくられた』の中でこう記している。
〈仮に50人が乗れる船だとしても六十隻の船団になったわけで、何組かに手分けして行動したのか、あるいは航海の途中で嵐にあって四散したのだろう。日本列島の各地に徐福来航伝説が残っているのは、その船が各地に漂着したためだと思われる〉
北は青森県中泊町(津軽半島)、京都府伊根町(丹後半島)、鹿児島県串木野市(薩摩半島)などは実際に足を運んでその伝説に直に触れた。だが、紀伊半島熊野の地で、実際に徐福が来航したことを示唆する物証に出会った。
三重県熊野市波田須。徐福伝説はこの地にもあった。前出『日本はこうしてつくられた』で安部龍太郎氏はこう記した――。
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徐福の宮は海を望む小高い丘に建っていた。
赤い鳥居の奥に小さな社があり、背後に巨大な楠が立っている。徐福の墓だという石碑もある。
波田須の地名は秦の人たちが住んだ「秦住(はたす) 」が変化したものだし、近くの釜所は徐福たちが陶器の焼き方や製鉄の技術を伝えたことに由来するという。(中略)
黒潮による海の幸、気候の恵みというだけでなく、南方系の人々は黒潮に乗ってこの国に渡来し、土着して日本人になった。神武天皇も徐福もそうである。
民族のDNAに刻まれたその記憶が、この地を魂のふるさとだと思わせるのではないか……。
そんなことを考えていると、お宮を管理している方が話を聞かせて下さるという。
さっそくお宅にうかがうと、驚くべきものを見せていただいた。
「これは徐福の宮のある丸山から発掘された半両銭です」
半両銭は秦の時代に流通した銅銭で、重さが半両(約八グラム)なので半両という。文字が刻んである。
直径三センチほどの円形方孔の貨幣で、秦の始皇帝の中国統一以後に中国全土で使用されるようになった。
見せていただいた半両銭は、昭和四十五年頃に徐福の宮を整備していた時に見つかったもので、当初は七、八枚あった。
二〇〇二年に中国の学者に鑑定してもらい、秦代のものに間違いないことが分かったが、どうした訳かその時に五、六枚が紛失した。
現在残っているのは、この一枚と新宮市立歴史民俗資料館に保管されている一枚だけだという。我々はにわかに色めき立った。(中略)
我々も南の薩摩半島や北の権現崎(ごんげんざき/青森県)などで、そんな伝説に遭遇してきたが、それを実証する史料と出会ったのは初めてだった。
徐福来航を伝説ではなく史実として論じる手がかりと、ようやく出会えたのである。
「凄いものを見せていただきましたが、少し慎重になった方がいいですよ」
移動の車の中で、藤田教授が釘を刺された。
歴史研究者としての長年の経験から、ぴたりと平仄が合う時には、誰かが仕組んだのではないかと疑った方がいいと学ばれたという。
なるほど、そんなこともあるかも知れないと思いながらも、私の興奮は冷めなかった。
徐福かその一行が残した足跡が、半両銭という形で明確に残っている。
しかも薩摩半島の場合と同じように、神武天皇と徐福の上陸地がすぐ隣り合っているのである。
(両者が同一人物だという説は、案外正しいのではないだろうか)
そんな小説家的な空想にふけりながら、車窓に広がる太平洋をながめていたのだった。
【続く】
日本はこうしてつくられた: 大和を都に選んだ古代王権の謎
安部 龍太郎 著
文/一乗谷かおり