取材・文/ふじのあやこ
時代の移り変わりとともに、変化していく家族のかたち。幼少期の家族との関係を振り返り、自身も子供を持つようになったからこそわかるようになった思いを語ってもらいます。~その1~はコチラ
今回お話を伺ったのは、都内の企業で正社員として働いている恭平さん(仮名・40歳)。彼は京都府出身で両親と3歳上の姉との4人家族。祖父母が亡くなるまでは同居しており、2人の世話は母親が一人で行っていたそう。そして、面倒を見続け、最後を看取った母親は家を出ていき、両親は離婚。地元を離れたくない思いから、父親との生活を恭平さんは選択します。
「当時はサッカーが弱い学校だったけど、本気でサッカーをやっていて、それに地元には幼馴染や彼女もいて、どうしても転校したくなかった。父親を選んだわけじゃないけど、母親について行くこともできなくて。姉も地元で就職していたから母親について行くことはできませんでした」
進学を喜んでくれた父親の一方、言葉足らずを後悔した受験だった
父親との暮らしに会話はほとんどなかったそう。そして高校を卒業後に働こうとしたものの父親からは大学進学を希望され、大阪の大学へ進学することになったと言います。
「父親はまだ仕事も現役でしたし、家は貧乏ではなかったけど、早く大人になりたかったので、高校を卒業後は働こうと思っていました。勉強も好きじゃなかったし。でも、学校の成績なんて一切興味のなかった父親が三者面談に来た時に、どの大学に行けるのかを熱心に先生に聞いていたんです。その時まで自分は就職したいと伝えてなかったし、父からも進学してほしいとか言われたことがなかったので、本当にびっくりしました。大学進学を希望していなかったので、勉強も一切していなかったし、できませんでした。父の希望を聞いてからは勉強を頑張ったけど、引っかかったのは偏差値も低い私立大学で……。それなのに、合格した時に、父は大喜びで。受かったことは嬉しかったけど、少しだけ申し訳ない気持ちにもなりました。もっと早くに話し合って、勉強を頑張っていればよかったなと」
その時母親は母方の実家がある岐阜県にいたそう。大学生になり、携帯を持つようになった恭平さんは母親と電話やメールをするようになります。
「母親は姉とは密に連絡を取り合っていたみたいで、居場所はずっと知っていました。母方の祖父母はまだ健在だったので一人ぼっちでもなかったし。母親との微妙な距離に、電話するのに妙な恥ずかしさがありましたね。なんとなく他人行儀というか。あのくらいの時期って家にいても母親との距離は微妙になるじゃないですか。離れて暮らしているから反抗心などはなくて、ただただ恥ずかしさだけが残っていました」
【子供を持ったことでわかった、当時の母親の辛い気持ち。次ページに続きます】