大虐殺はあったのか、なかったのか?
そして1981年、比叡山の東塔、西塔、横川という三つのエリアで発掘調査員にあたった兼康保明さん(現在東海センター理事)が、「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」(『滋賀考古学論叢』第1集)という論考を発表した。
これによると、信長の焼き討ちによって焼け落ちたと明確に確認できるのは、根本中堂と大講堂のみで、多聞院英俊が指摘するように、すでに多くの建物は坂本に移転していたと推定できるという。
つまり、信長の比叡山焼き討ちは、あることはあったが「全山を焼き尽くす」ような大規模なものではなく、当然、ジェノサイドではなかったということになるのだ。
ところが、京の公家・山科言継の日記『言継卿記』には、日吉神社も山上の東塔も西塔も残らず火が放たれ、僧侶も俗人、男女を問わず3~4千人が斬り捨てられたと、『信長公記』と似たような記述がある。
比叡山の山上はすでに廃れていたので、信長は火をかけるだけかけ、根本中堂などわずかな建物だけを焼いた。そして、山麓の坂本をも焼き討ちし、そこで大量虐殺を行ったのではないかという説もある。
しかし、平成元年(1989)から翌年にかけ、坂本の里坊(人里に作られた僧侶らの住まい)跡に、トレンチ(試掘坑)を使った部分的な調査が行なわれたところ、里坊のひとつである延命院の境内からは、信長時代の火災の痕跡はまったく見つからなかったという。
山上にも、山麓の里坊にも、大規模な焼き討ちの証拠は見つからなかった。
もちろん、比叡山全山の調査をしたわけではないので、確定的なことは言えないが、どうも信長による比叡山焼き討ちは、少なくともジェノサイドとしては「幻」であった公算が高いことがわかった。
その「虚像」も、おそらく信長の人物像や功績を過大に見積もってきた文脈で理解できるかもしれない。信長に恨みを持つ人間、あるいは低い評価しか与えない人は、大虐殺をやらかした悪人として信長を描きたいという動機がある。
一方、「歴史上の傑物」「天才」、はたまた「魔王」「神になろうとした男」「スーパーマン」……と、際限なく信長のイメージを膨張させたい方にとっても、「大虐殺をものともせずやり遂げた男」「既存の宗教的権威を蹴散らした男」として信長を描くのに、虐殺話は好都合だったのではないか。
うがちすぎかもしれないが、結果として「信長の比叡山焼き討ち」は、歴史上の事実として信じられてきたのだ。
もちろん、「大虐殺」が虚像だったとしても、長く日本有数の宗教的権威であり、日本最高峰の学問修養の場でもあった比叡山が、織田信長に敵対したために攻撃を受け、衰退したという事実は、当時の人々に大きなインパクトを残した。「成果」があったからこそ、光秀も「出世」をしたのだ。
凡庸な結論。比叡山は焼けた。でも、思ったほどひどくはなかった(らしい)。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。