なぜ信長は、比叡山を焼いたのか
比叡山焼き討ちについての、もう一つの疑問は、焼き討ちは本当に全山を焼き尽くすようなジェノサイドだったのか、ということだ。
それを見る前に、焼き討ちの動機について確認をしておきたい。かつて、比叡山焼き討ちは、既存の権威や宗教を否定する革命児・信長の革新的かつ残忍な性格を語る所業ととらえられていた。近年の「信長見直し」の機運もあり、こうした見方は修正されてきた。
信長は中世的な権威をやみくもに否定してはいないし、既存の仏教や寺院の存在を否定してもいない。信長は、あくまでも比叡山の僧が宗教者の分際をわきまえず、介入すべきでない大名同士の争いに口を挟み、浅井・朝倉氏に味方して信長に武力抵抗をしたことに怒りをあらわにしたのだ。
しかも、焼き討ちの前年、元亀元年には「信長に味方すれば織田領内の比叡山の領地を返そう。また出家の身なのだから中立を守ってほしい。それがだめなら根本中堂を焼き払う」と比叡山に通達していた。
これに対し、比叡山サイドは返事をすることを避け、そのまま浅井・朝倉方に味方したのだ。さすがに信長も、放置はできなかったのだろう。
つまり、信長は比叡山の僧侶が宗教者としての道を踏み外したという理由で焼き討ちをしたのであって、仏教や天台宗自体を否定してはいないのだ。
いずれにせよ、焼き討ちは実行された。平安時代以来の歴史を持つ比叡山は、本当にこの焼き討ちで「見る影もない」状態になってしまったのだろうか。
実は、元亀元年に比叡山を参詣した奈良興福寺多聞院の僧侶・英俊が、『多聞院日記』と呼ばれるこの時代の代表的な記録に、当時の比叡山の様子を書き残している。英俊は比叡山の堂舎や坊舎がことごとく廃れてしまい、僧侶なども多くは山麓の坂本に移住していたと記しているのだ。
実は信長より百年ほど前、室町幕府の第6代将軍の足利義教は、延暦寺の僧侶に制裁を加えるために軍勢を派遣し、比叡山を焼き討ちしている。その後、比叡山復興の努力はあったと思われるが、信長が焼き討ちをした頃、比叡山はすでに衰退期に入っていたという考えもあることに注意したい。
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