『麒麟がくる』後半戦のキーマン足利義昭(演・滝藤賢一)。ドラマでは一乗院覚慶時代から貧しい人々に施しをする姿が描かれる。この後、将軍職につく義昭と光秀は、極めて深い関係が続いていく。そのふたりの関係について、『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』(藤田達生著)から再録する。
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一乗谷の御所とインテリ青年光秀
光秀が頼った朝倉義景は、京好みの大名だった。城下町一乗谷(福井市、国特別遺跡)には、公家や学者をはじめ連歌師・医師・僧侶などが訪れている。『明智軍記』によると、義景からは破格の五百貫文の知行を与えられ、鉄砲寄子百人を預けられたと記されている。
潤色の多い史料の性格からも、この記事をそのまま信用することはできないが、都から来たインテリ青年光秀は、朝倉氏から厚遇されたに違いない。ここで現地に伝わる伝承を紹介しよう。
現在、一乗谷の大手道筋にあたる東大味(ひがしおおみ/福井市)には、光秀の屋敷跡と称する場所があり、その一角に「あけっつぁま」とよばれている明智神社が鎮座する。光秀は上洛した後もこの地を愛したといわれ、後の天正三年の信長による越前一向一揆鎮圧の際、住民の安否を気遣い、柴田勝家に保護を働きかけたとの伝承がある。当地では、住民が毎年光秀の命日にあたる六月十三日に護摩供養をおこなっていると聞く。
このように光秀の前半生は、謎に満ちている。信用できるのは、足利義昭が朝倉義景の庇護を受けていた頃には、義昭の側近として仕えていたということである。永禄九年に近江から若狭を経て越前まで亡命した義昭は、義景からは城下町一乗谷(福井市)の上城戸の外の安養寺に御所を与えられた。
ここで、永禄の政変で人生が激変した足利義昭についてふれておこう。十二代将軍足利義晴の次男として、義昭は天文六年(一五三七)十一月三日に誕生している。義輝の弟だった義昭は、わずか六歳にして関白近衛稙家の猶子として大和興福寺の一乗院に入室した。
僧侶一乗院覚慶として宗教界における栄達をめざしていた義昭であったが、永禄八年五月の政変で兄が殺され、自らは軟禁され身の危険を感じたため、細川藤孝らの側近と一緒に近江国甲賀郡の奉公衆和田惟政を頼って逃亡した。ここで還俗し、将軍になるために上杉謙信・武田信玄・織田信長ら諸国の戦国大名に援助の依頼を開始する。
現在、滋賀県甲賀市和田には「公方屋敷」とよばれる義昭御所跡がある。周囲には、和田氏の城館が配置されている。ここでしばらく過ごし、同年十一月に東海道沿いの近江矢島(滋賀県守山市)へと進出したものの、近江守護六角氏の援助は得られなかった。
やむなく妹婿の若狭守護の武田氏を頼るが、当主義統の権力基盤は脆弱で、ここでも色よい返事が得られなかったため、朝倉氏の助力を期待して永禄九年九月に越前一乗谷に乗り込んだのだった。
一乗谷滞在中に、義昭は元服をすませ、幕府の中核となる近臣集団を組織した。これは、永禄十一年五月に朝倉義景の催した供応において、上野晴忠・一色晴家・一色藤長・武田信賢などの御供衆が控えたていたことから明らかである(「朝倉亭御成記」)。
一乗谷では、朝倉義景が義昭一行をもてなした。無論、自らの権威に箔を付ける存在としてである。義景にとって隣国若狭に攻め込む理由はあっても、わざわざ義昭を援助して上洛戦を始めるような義理も、ましてや必然性もなかった。
足利義昭、将軍就任前の政権構想
この時期の義昭の政権構想については、義昭が恃みとする戦国大名衆を外様衆としてリスト化した先述の「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」に明示されている。
これを分析した黒嶋敏氏の研究によると、「従来の幕府番帳が幕臣と旧族の大守護大名のみを記していることからすると、かなり異例のことであるが、義昭は彼らの地域権力としての支配を前提としつつ、外様衆として新たに編成し、全国政権として君臨する意志を持っていた」と指摘される〔黒嶋二〇〇四〕。
外様衆は総数が五十三名であり、おおむねこの時期の大名当主である。具体的な内容の特徴としては、細川・山名・一色・赤松といった幕府要職を歴任した守護大名や北畠・姉小路という国司家が載せられているのは、伝統的な室町時代の幕府秩序に倣ったことが指摘されている。また異色ではあるが、関東管領を称した上杉謙信が加えられているのも注目される。
このなかに、新興大名である織田信長が入っているのは重要である。上洛前の時期に、マークされていたのである。やはり、義輝の正統的後継者を任じる義昭としては、謙信と同様に兄と入魂だった信長に期待していたのであろう。
加えて、毛利元就・毛利輝元・吉川元春・小早川隆景という毛利氏一族が四人まで載っていることもおもしろい。毛利氏も、出自が守護家でも守護代家でもない新興大名家である。毛利氏と関係の深い伊予守護家の河野通宣も加えられている。将軍任官前から、安芸・備後そして伊予の地域権力を与党と認識していたのである。これらが、奇しくも後の「鞆幕府」を支える勢力になった。
義昭一行は、朝倉氏が上洛を援助しないのがわかると、信長を頼ることにした。尾張をほぼ統一した永禄二年に、信長は上洛して義輝に謁見して、忠誠を誓っていたからである。永禄十一年七月、織田信長は美濃立政寺(りゅうしょうじ/岐阜市)に義昭を迎えた。先述したように、この運命の出会いに光秀が関与していたといわれる。
既に、信長は前年から松永久秀と結んで大和から南山城さらには近江にかけての勢力を組織して義昭の上洛戦の準備に取り組んでいたことが明らかになっている〔天野二〇一六〕。永禄十一年年九月、信長はまさに満を侍しての上洛に取りかかった。
近江観音寺城による六角氏との戦争もあっけなく勝利し、義昭を伴っての入京は見事に成功した。信長が畿内をほぼ統一した十月十八日、義昭は念願の将軍に任官することができた。三好氏が擁立した十四代将軍足利義栄が入京することなく九月三十日に摂津富田で病没したのも、義昭にとっては幸運だった。