大河ドラマ『麒麟がくる』休止6週目は、戦国大河の名場面スペシャル。今回は1996年放送の『秀吉』が登場する。大河最後の平均視聴率30%超え作品の舞台裏を、かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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平成8年(1996)放送のNHK大河ドラマ『秀吉』は、主演の竹中直人が演じる、剽軽で自由奔放、野性味あふれる秀吉像が印象的だった。困難に直面した竹中秀吉が口する「心・配・ご無・用!」の決めゼリフは、妙な手のしぐさと相まって、マネをする子どもたちもいたらしい。
前年の大河ドラマ『八代将軍 吉宗』が好評だったこともあり、スタート時の視聴率は26.5%。そして、回を追うごとに視聴率は上がり、平均で30.5%という、現在では考えられない高視聴率をマークした。
物語の巧みさ、印象的なフレーズなど、人気を呼んださまざまな要因が考えられるが、竹中直人の魅力に負うところが大きかったのも確かだろう。有名になりたい、偉くなりたい、女にもてたい、信長さま大好き、もっと出世したい、天下取りたい……と、「~したい」という人間の欲望や野心を、丸ごと肯定的に明るく描いた秀吉の人物像に、竹中の規格外の演技は完全にはまっていた。
しかし、脚本を担当した竹山洋によれば、プロデューサーの西村与志木から竹中のキャスティングを聞かされたとき、竹山は耳を疑ったという。「あの、遠藤周作のモノマネをする、お笑いの竹中さんですか?」と。
確かに、当時の竹中のイメージは、「笑いながら怒る人」であり「遠藤周作や芥川龍之介の顔マネをするコメディアン」だった。『秀吉』は大河ドラマの35作目。このころになると、大河の主役といえば、重厚な演技をする大物というロールモデルのイメージがすでにできあがっていたように思う。
〈緒形秀吉〉は重厚だったという思い込み
秀吉役といえば、大河3作目の『太閤記』で演じた緒形拳の名前が思い出される。確かに、重厚で凄みのある演技をするが、しかし、当時28歳の緒形拳の演技は、改めて見返してみると実にエネルギッシュではじけている。
もちろん天下人となってからの秀吉は、権力者の狂気や孤独をまとった重々しい姿に変化しているが、若いころの緒形秀吉は決してしゃちこばった重厚な秀吉ではなかった。
どうも人間の記憶は、後から修正される嫌いがある。あの緒形拳(後年のイメージ)が演じた秀吉だから、重厚だった(はずだ)という思い込みがあるのではないか。
竹中の秀吉は、若き日の緒形拳に負けない生命力あふれる姿を見せてくれた。年中走っている、叫んでいる。喜怒哀楽を隠しもせず、自分の欲望に忠実に、自分と家族の幸せを願って突き進む。そんな秀吉の姿は、おそらくわれわれ現代人が豊臣秀吉、いや木下藤吉郎という人物にいだいている、ポジティブな要素の結晶なのだろう。
ドラマ『秀吉』は、天下人となったのち、養子の秀次を死に追いやり、泥沼の朝鮮出兵になだれ込む、秀吉晩年の「暗部」を端折ったことで、批判を受けることもあった。竹中自身も、権力者の暗部をのぞかせる晩年も演じてみたかったと語っている。しかし、あくまでも明るく、右肩上がりの人生を生きる竹中秀吉の人物造形を貫いたことは、やはりドラマとしては正解だったのかもしれない。
ちなみに脚本の竹山洋は、母子家庭で育てられたことから、『秀吉』を一種の「母もの」として描きたかったという。極貧の生まれの秀吉が、人生の坂道を登ってゆく。それは愛する母親のためでもあった——という物語。
その意味でも、市原悦子が演じた母「なか」の死をもって『秀吉』が終わるのは首尾一貫している。
おそらく『秀吉』は、竹山の、秀吉に仮託した「母への恩返し」でもあったのだろう。
最終回の放送を、竹山は竹中から贈られた酒を飲みながら見ていた。そのとき、同時にテレビの前にいたであろう母親から電話がかかってきた。自分の若い時の苦労も報われた——。そう言われた竹山は、涙を流したという。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。 北条義時研究の第一人者山本みなみさんの『史伝 北条義時』(小学館刊)をプロデュース。