取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
“ 羅紗裁ち鋏”ひと筋に70年。今日も、力強い槌音を響かせる鋏鍛冶の元気の源は、卵と常備菜を欠かさない朝食である。
【石塚昭一郎さんの定番・朝めし自慢】
すいすいと鋏が布地を裁っていく。鋏が生き物のように動き、前に出すだけで小気味いい切れ味だ。日本中のテーラーが憧れた羅紗裁ち鋏の最高峰、「長太郎総火造り鋏」である。羅紗とは毛織物のことで、総火造りとは型などを一切使わず、地鉄を金槌で何度も打ち鍛えて仕上げることだ。
明治維新後の洋装の流行とともに、刀鍛冶だった吉田弥十郎(銘・弥吉)が付け鋼という刀の技法を生かして総火造りの鋏を開発したのが、その始まりとされる。明治10年のことだ。この吉田弥吉の直弟子が、初代長太郎。石塚昭一郎さんの祖父である。
昭和9年、東京・南千住に生まれた石塚さんは同25年3月、中学卒業と同時に父(二代目長太郎)の弟子として工場に入った。
「子供の頃から三代目といわれ、家業を継ぐのが当たり前だと思っていた。総火造りの裁ち鋏は工程も多く、技の会得には少なくとも10年はかかる。修業は早いほうがいいから、中学を出ての弟子入りがギリギリセーフです」
昭和38年、28歳の時に父を亡くし、三代目長太郎を襲名。裁ち鋏の最盛期は、高度経済成長期の昭和40年代半ば。洋裁学校が隆盛を極め、問屋は「長太郎裁ち鋏」を仕入れるのがステイタスだった。
一時は弟子を抱えていたが、鋏の需要が先細りになる現在、総火造りで裁ち鋏を仕上げられるのは、日本で石塚さんただひとりだ。
祖父が明治34年に創業してから、118年。“井の中の蛙大海を知らず、されど天の深さを知る”が、座右の銘である。
卵、豆腐、明太子が三種の神器
病気知らずで80代を迎えたが、2年前に腰部脊柱管狭窄症の手術を受けた。以来、日課だった1万歩の散歩を控えているという。
「今は氏神さまである素盞雄(すさのお)神社の祭りと鋏が生き甲斐です。365日欠かさない晩酌も、楽しみのひとつではありますが……」
食事は規則正しい。卵と豆腐、明太子三種の神器で、朝食には卵と明太子を欠かさない。いずれも子供の頃からの大好物で、昔は明太子ではなく、タラコが一般的だった。卵は茹で卵か卵焼き、または目玉焼きが登場すれば文句はない。加えて、朝食の最強の友は、常備の佃煮やふりかけだ。
豆腐は朝の味噌汁の具にもなるが、多くは冷奴や湯豆腐に料して晩酌の肴となることが多いという。
鋏に育ててもらったから、これからも鋏に恩返しをしたい
三代目長太郎・石塚昭一郎さんに今、弟子はいない。
「時代の流れで“長太郎”の銘は私の代でお仕舞いになる。しかし、職人の存在意義がなくなったとは思いません。総火造りの鋏なら1丁造るのに1か月余りかかりますが、完成した喜びはそれを使うお客様の喜びにもつながる。ただ、もう数は造れなくなりました」
という石塚さんは、総火造りではなく、握りの部分だけは型に頼る「長太郎裁ち鋏」という標準的な製品も造っている。これなら価格は総火造りの10分の1ほど。にもかかわらず、2枚の刃は総火造りと何ら変わるところはない。
「一般の人ならこれで充分。先折れしても修理ができるように、長めに造ってあります。使った後はきれいに拭き取り、油を塗って新聞紙に包んで保管してもらえれば一生ものです。私は鋏に育ててもらったから、これからも鋏に恩返しをしたい……」
2本の刃を一点で擦り合わせる微妙な調子は、「長太郎」ならではのもの。百有余年、裁ち鋏界のトップブランドに君臨してきた矜持の証である。
取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆
※この記事は『サライ』本誌2019年5月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。