蕎麦の脇に置かれた小皿。これに乗せられた、刻みネギ、ワサビ、大根おろしなどが、蕎麦好きなら誰もが知っている「薬味」だ。では、この小皿一枚に、本が一冊書けるほどの物語があると言ったら、信じてもらえるだろうか。
例えばワサビ。こんなことがあった。
僕の撮った蕎麦の写真が、雑誌に大きく掲載された。それを見た蕎麦好きのSさんが、不思議そうに僕に質問した。
「私は料理教室で、ワサビは葉の付いている方、つまり上の方からおろしなさいと教わったのですが、この写真では、それとは反対側、下の方からおろしていますね。なぜですか?」
Sさんが指摘した通り、蕎麦の脇には鮫皮の小さなおろし金が置かれ、その上に緑の色も爽やかな小振りのワサビが乗せられている。そして短く切られた葉とは反対の部分が、「どうぞ、こちらからおろしてください」といわんばかりに、包丁で形良く削られていた。
この蕎麦屋は、手打ち蕎麦の名店として全国に知られた店だ。店主のTさんは蕎麦に全身全霊を打ち込んでいる蕎麦職人で、ワサビの扱いについても知らないはずがない。そして確かに、ワサビは葉の付いている上の方からおろすものだとも、一般的にはいわれている。この蕎麦屋の店主Tさんは、どういう考えで、ワサビをその逆からおろしたのだろうか。
じつは、Tさんは、この件について撮影するとき僕にひと通り説明してくれていた。
「ワサビについては色々考えた末、うちではこういう形で提供しようと決めたのです。ワサビの可食部は葉の付いている上の部分だけではなくて、かなり下の方まで美味しく食べられます。ただ、最下部は味が良くないので、包丁で切り落とします。こうして葉の一部を付けたままお客さまにお出しするのは、冷たい蕎麦の場合、緑のワサビの爽やかさを、見た目でも楽しんでいただきたいという、いわばサービス精神からなのです」
Sさんにこのことを説明すると、「なるほど」と納得してくれた。
しかし僕は逆に、この瞬間、頭の中に一粒の疑問の種が蒔かれてしまった。
なぜワサビは、葉の側からおろさなければいけないのだろう。逆向きにおろすと不味くなるのだろうか。それとも辛さが弱くなるのだろうか。疑問の種は小さな双葉を出し、むくむくと成長していった。
今、作業している仕事が一段落して時間ができたら、自分で実際にワサビを両方からすりおろして試してみよう。そのときはそう思ったのだが、やっぱりそんな余裕はなくて、次から次へと締め切りに追われる毎日が続いていた。
そんなある日、必要があって室町時代の文献『山内料理書(やまのうちりょうりしょ)』を調べていたときのこと。ふと目が止まった一行に、なんとワサビの正しいおろし方が書いてあるではないか。
『山内料理書』は、日本料理の基礎ともいえる本膳料理の決まり事を記録したもので、料理の歴史を調べるうえで欠かすことのできない重要な資料である。これに書かれていることはつまり、日本料理の「掟」といっても、あながち間違いではない。
読みにくい漢文を翻刻した一行には、以下のように記されていた。
「春は葉方よりも下。冬は根方より下。」(続群書類従『山内料理書』/八木書店)
つまり、春と冬では、ワサビのおろし方は違うのだという。春には葉の付いている上の方からおろし、冬にはその反対側、下からおろすのが正しいと書かれている。一般にいわれている「ワサビは葉の側からおろす」という常識に、大きな疑問符を投げかける記述だった。
うーん、そうかと、僕は腕組みをした。
今度こそ、時間をとって春と冬、ワサビを上から下から、それぞれおろして試してみなくてはなるまい。ワサビのおろしかたひとつとっても、これだけ様々な意見が出てくるのだ。しかも調べるほどに、そこから枝葉が伸びていく。早くしないと、また次の枝葉が出てこないとも限らない。
蕎麦は奥が深いというよりむしろ、奥へ進んでいくと迷い込んで戻れなくなってしまう迷宮のようなものだぞと、ちょっぴり興奮しながら妙に嬉しくなったのは、何につけても理屈をこねたくなる蕎麦好きの性なのだろうか。
文/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。サライで撮影と文を担当して記事 を制作。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)などがある。