その名店は、僕たちの最寄り駅から各駅停車で5駅離れたところにあった。かなり評判のいい店で、いつも昼前には行列ができる。蕎麦も旨いが、蕎麦つゆが際立って美味しい店で、実を言うと、僕は何度か足を運んだことがあった。
しばらく行列に並んだあと、席に座り、僕が「これ美味しそうだから、どうですか」と言って薦めた、一日十食限定の手挽きの蕎麦を、ふたりで注文した。
運ばれてきた蕎麦を食べた息子の表情が変わった。
「・・これ・・美味しいですねえ」
僕も「美味しいですねえ!」と答える。「・・なんだか、つゆのバランスがいいですよね」
二代目は、黙々と蕎麦を食べたあと、誰に言うともなく、つぶやいた。
「これがバランスがいいっていうことか。うちのつゆは、バランス、悪いなあ・・」
それから一週間ほどして、僕が近所の、いつもの蕎麦屋を訪れると、二代目が眼を輝かせながら言った。
「この前は、ありがとうございました。いやあ、あの蕎麦、旨くて驚きました。それで、僕も蕎麦つゆを少し工夫してみたんですよ。よかったら、そのつゆもお出ししますので、ちょっと感想を聞かせてください」
それからというもの、これはどうだ、こっちのほうが美味しいかと、店に行くたびに、試食を求められるようになった。若い二代目は、やる気満々で、いつか行ったあの蕎麦屋に負けない蕎麦を作るのだと、このごろ手挽きの小さな石臼まで買って、研究を重ねている。
店の客も以前より増えてきて、昼時には順番待ちをしなければならないことも、時々あるようになった。
僕は今、週に2回は、すっかり美味しくなった近所の蕎麦屋で、蕎麦を楽しくいただいている。
文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)などがある。