ちょっと歴史をさかのぼってみると、『かんだやぶそば』の元になった店、連雀町『薮蕎麦』では、明治初期の話だと思われるが「五目そば」なるメニューがあったという。これは、たくさんの小魚を具に使った蕎麦で、客にはずいぶん好評だったと、『並木薮蕎麦』の初代、堀田勝三さんが、著書「うどんのぬき湯」に書いている。しかし、今、薮蕎麦の品書きに、「五目そば」の名前は見当たらない。なぜ、こういう蕎麦が、後世に残らないのだろうか。

ひとつ考えられるのは、蕎麦は大衆食であったことから、高価な食材は使いにくかったという理由だ。蕎麦屋は、比較的廉価な食材を使い、しかも材料の種類をなるべく少なく抑えている。こうすることで仕事の流れをシンプルにして、効率良く注文をこなして回転をあげるのだ。そのような努力をして値段を安く抑えることが、大衆食の使命であったともいえる。経営上の判断から、手のかかる魚介を使うと値段を高くせざるを得なくなるため、魚類を控えたということがあるかもしれない。

そしてもうひとつ考えられる理由。前述の堀田勝三さんが、「うどんのぬき湯」の中に興味深いことを書いている。それによると、蕎麦は寺と縁が深い。そもそも蕎麦は中国から僧侶が伝えたものと言われている。東京では、上野の山を控えて蕎麦の名店が立ち並んでいるが、それらの店のほとんどが、寺とつながりがある。そうしたことから精進の食材を使う店が多いのではないか、ということだ。

堀田勝三さんは、禅味、俳味を追求し、蕎麦料理を創作した人だが、工夫を凝らしたその献立の中でも、魚介類はほとんど使わなかった。

しかし、江戸市中の蕎麦屋がすべて寺社と関係があって、魚介を使えない状況にあったとも考えにくい。なぜ蕎麦の具に、江戸前の魚介類が少なかったのか。これだけでは、ちょっと説明がつかないだろう。

考えるほどに謎は深まり、混迷の度を増していく。こういうときは蕎麦屋に行き、天ぷら蕎麦などを肴に、お銚子を傾けて気分転換をはかるに限る。

ふたつめの不思議の答がおわかりの方は、どうぞ片山にご教示いただきたい。

文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)などがある。

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