【料理羅針盤~第2回】舌の冒険:味覚のアドべンチャー〈才能、好奇心、情熱について考える〉
このところ、折にふれて考える。私は本当に「食いしん坊」だろうかと。
普通に言えば、美味しいものが大好きだから、その意味では「食いしん坊」には違いない。
ただし、正確に言えば、「質の高い」食材、料理が好きなのである。いや、もうひとつ言いなおそう。人の手がかかった「人の匂いのする」食べ物、料理に俄然興味が湧くのである。
ただ季節になったからと言って、桃が食べたい、蟹を食べたい、というのではなく、この人がこんな風に手をかけていると聞けば、居ても立ってもいられず、明日にでもその人に逢いに出かけたくなってしまうのである。「食いしん坊人喰い人種派」とでも言おうか。
だから、「人の匂いのする」食べ物の前では、私は自分でも驚くほど素直、従順になってしまう。少しでも、それに対して敬意を払わぬ人がその周りにいると、とたんに素直が天の邪鬼にひっくり返ってしまうのだが。
「人の匂いのする」食べものに「素直」「従順」というのは、食べっぷりに一番現れるもので、私が作り手、料理人に気に入られるのは、その食べっぷりのよさではなかろうか。同じ食卓につく仲間に言わせると、誰よりも美味そうに食べるのだそうだ。東京の下町の生まれ育ちだから、品良く食べることはしつけられてこなかったし、そもそもお行儀よく食べることは大の苦手である。
食べものに対する分析力は相当に曖昧だし、料理の文章にしても、観察力が足らないせいか、決定的な批評の名文が書けない。にもかかわらず、「質の高い」料理を生み出す料理人に気に入られているのは、私の敬意を払った食べっぷり以外に答えを見つけ出すことができないのだ。
結論を言ってしまえば「美味しいものを食べるのではなく、ものを美味しく食べる」これに尽きるのではなかろうか。これを「食べる情熱」と呼びたい。優れた味覚の持ち主であることに越したことはないし、祖父の代から味の分かる家系に育ったのであれば、それは「美味しいもの」を理解するのにかなり有効な武器になる。
でも、いちばん大切なのは「人の匂い」を嗅ぎつける好奇心と、それに正面から敬意を込めて立ち向かう情熱ではなかろうか。料理人に「恐れられる」のではなく、こよなく「可愛がられる」には、大胆に言ってしまえば、鋭い味覚も繊細な才能もいらないのではなかろうか。