取材・文/坂口鈴香
「親の終の棲家をどう選ぶ? 認知症になった母」「親の終の棲家をどう選ぶ? 東京に戻ると冷静になれる」では、東京と静岡をクルマで往復して遠距離介護をする上野さんの事例を紹介した。
今回は、飛行機を使って東京と九州を往復している「超遠距離介護」をする中澤真理さん(仮名・54)に話を伺った。
■両親はともに90代。二人暮らし歴は35年
東京在住の中澤真理さんは、一人娘。両親は2人で九州に住んでいる。父の要さん(仮名)は96歳、母の富代さん(仮名)は90歳。超高齢の二人暮らしだ。
中澤さんは、大学入学時に親元を離れて以来、実家には盆と正月くらいしか帰らない生活を送ってきた。富代さんは、当時としては珍しく女学校を出たあと、地元の大企業でタイピストをしていたという“職業婦人”。結婚して家庭に入ったとはいえ、娘には好きな仕事を続けてほしいという思いが強かったのだ。
幸い両親は元気だった――といっても、中澤さんが小学生のころ、富代さんは重度の胃潰瘍のため胃の大部分を切除している。
「そのせいで、私は幼いころから母が疲れたりすると『お母さん、死んじゃうかも』と怖い思いをしていました」
しかし、富代さんはこの病気のおかげで食事には細心の注意を払うようになった。油ものはあまりとらず、野菜を中心にとり、栄養価についての知識も豊富になった。そんな富代さんの健康的な手料理が奏功して、両親は70代になっても大きな病気もせず、中澤さんも安心して仕事に打ち込めたのだった。
■父が脊柱管狭窄症で手術を決断
そんな両親に最初の老いという壁が眼前に立ちはだかったのは、父要さんが80歳になる直前のこと。歩行が困難になったのだ。
「父は典型的な九州男児。威張るわけではありませんが、頑固で、我慢強い人でした。そのせいで、『歩けない』とか『足がしびれる』などとは一言も言わなかったんです。お正月に帰ったときに、父の足がたびたび止まることに異常を感じて、病院に連れて行きました」
病名は、脊柱管狭窄症。脊柱管が狭くなって脊髄が圧迫され、腰の痛みや足のしびれなどの症状が出てくる。長時間歩くと症状が悪化し、しばらく休むとまた歩けるようになる「間欠跛行(かんけつはこう)」が典型的な症状だ。
要さんは高齢ではあったが、足以外には体に何の問題もない。病気による痛みがなくなれば、元の生活ができると考え、手術を決断した。
「背中の骨を砕いて、ボルトを入れて固定するという大手術でした」
確かに思い切った決断だ。手術をしても痛みがとれない高齢者も少なくないし、入院によって環境が変わり、認知機能が低下してしまうリスクもある。
■頑固な性格が回復を早めた
しかし、要さんの選択は「吉」と出た。
「手術直後は一時的に車いすになったので、このまま元の状態に戻らなくなるかもしれないと覚悟しました。ところが、さすが頑固な父だけあって、翌日には『他人に下の世話をしてもらうのはイヤだ』と、自分でトイレに行ったんです。術後の痛みがないわけではないのに、頑固な性格のおかげで回復が早まりました」
さらに幸運なことに、当時要さんの住む市は、そのころ医療に力を入れていた。全国から有能な各科の医師や理学療法士(PT)を集めていたのだ。医師やPTの手腕で、3か月の入院中に歩行能力も以前以上に回復し、杖も使うことなく元気に自宅に戻った。
中澤さんの遠距離介護はこうして回避された。
両親は、自立した二人暮らしを80代でも続けた。タイピストだった富代さんは、新しい機器に挑戦する意欲も高かったので、パソコンやスマートフォンも瞬く間にマスターした。スマートフォンのSNSアプリは、遠く離れて暮らす中澤さんと富代さんの連絡ツールとして大活躍している。
「絵文字やスタンプなど、私でも驚くほど活用できていて、我が母ながら感心します」と中澤さんは誇らしげに語る。
【後編に続きます】
取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。