文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
世界中のオペラファン憧れの、クラシック音楽の殿堂、ウィーン国立オペラ座は、今年で150周年。小澤征爾も過去に音楽監督を務めたこの建物は、ハプルブルク帝国黄金時代に、国の壮大な事業の一部として築かれました。しかし、当時その建築は、「沈んだ箱」「埋もれたクジラ」とあだ名され、失敗作と激しく批判されました。
今では街並みになじみ、美しく壮麗に見えるこの歴史的建造物ですが、なぜ「建築に失敗」してしまったのか、そして、二人の建築家の悲劇の死の謎に迫ります。
●先代劇場と壁の取り壊し
ウィーンには、モーツァルトの時代より前から、オペラ座が複数ありました。その中でも、現在のホテル・ザッハの場所にあったケルントナートーア劇場は、モーツァルトのピアノコンチェルトや、ベートーヴェンの「フィデリオ」、第九などが初演された、由緒ある「宮廷御用達」劇場でした。しかし、老朽化に伴い、この劇場が1870年に取り壊されることとなります。
その代わりの劇場の建設が急がれる中、ウィーンは都市として、大きな転換期を迎えていました。近代的な都市には不要となった、市街地を囲む市壁を取り壊し、環状道路「リング大通り」を作る、帝国の威信をかけた壮大な都市計画です。さらに、市壁外の空き地「グラシ」には、大学や博物館、コンサートホールなどの壮麗な建物も建てられることになりました。
このプロジェクトで最初に完成する、新時代を代表する建物として、オペラ座の建て替えが進められます。
1860年には建築のデザインコンテストが始まり、ファン・デア・ニュルとシカーズブルクという建築家が選ばれます。二人は学生時代から共に過ごし、前者は内装、後者は外装を得意とする、建築家コンビでした。
新しいオペラ座の場所は、ハプスブルク帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ自らが選び、建築にかかる費用の一部まで皇帝の個人資産から出すという、皇室にとっても肝いりのプロジェクト。世間の注目が集まります。
こうしてオペラ座は、1863年に竣工が始まり、8年の歳月をかけて完成します。しかし、その道は、平たんではありませんでした。
●目の上のたんこぶと皇帝の一言
まず第一の横やりは、建設予定地の目の前で入りました。国立オペラ座は、ウィーンの顔となる重要な建築物となる予定でしたが、その目の前の巨大な敷地を、レンガ成金の大富豪ハインリヒ・ドラッシェが買い取り、オペラ座がかすむくらいの壮麗な住宅を建設します。このままでは、どちらがオペラ座なのかわからなくなってしまいます。
第二の問題点は、その急ぎすぎた建設計画にあります。オペラ座の建築工事は、予定地前の市壁の取り壊しと同時に進められていました。まだ前の道の整地すら始まっていないのに、建物は着々と完成に近づいていきます。そんな時、突然「オペラ座前の道路の高さを1メートル高くする」という通達がおります。
ウィーン市民はこれを聞いて大騒ぎ。役所や都市計画の責任者ではなく、オペラ座の建築家二人に、大きな批判が集まります。国家事業の最先端を行くオペラ座が、道路から1メートルも沈んでいたら、国の威信にも関わります。「沈んだ箱」「建築芸術のケーニッヒグレーツ」「埋もれたクジラ」「消化中で横になっている象」など、ありとあらゆる言葉が投げかけられました。
特に、「建築芸術のケーニッヒグレーツ」という呼び名が好まれたのは、言葉遊びと皮肉が好きなウィーンらしいエピソードです。ケーニッヒグレーツとは、オーストリアがプロイセンと戦った普墺戦争で、オーストリアが惨敗した戦いがあった場所ですが、ドイツ語で「惨敗」をニーダーラーゲ(Niederlage)と言います。一方、「低い位置にある」という言葉もニーダーラーゲ。一つの言葉に二つの意味があることから、「低い位置にある、惨敗した戦いの名にふさわしい建築芸術」という、ダブルミーニングの知的な皮肉です。
そして、最後の打撃となったのは、このような噂でした。「皇帝陛下が、このオペラ座を目にされ、侍従にこうおっしゃったそうだ。『民衆の言うことはもっともだ。この建物は確かに、地面に低く埋まりすぎている。』」
この騒ぎですでに精神を病んでいた建築家ファン・デア・ニュルは、劇場完成の1年前、妻の妊娠中というタイミングで、絶望して自宅で首を吊って自殺します。さらに、その10週間後、心臓に問題を抱えていたシカーツブルクは心臓発作を起こし、デッサン机に覆いかぶさって発見されます。
この惨劇を聞いた皇帝フランツ・ヨーゼフは、自分の発言の影響力の大きさを考慮し、その後あらゆる物事に対して意見を求められても、常に「素晴らしい。私はとてもうれしいぞ。(Es war sehr schön, es hat mich sehr gefreut.)」と答えるようになった、と言われています。現在ではこのフレーズは、フランツ・ヨーゼフの口癖として有名ですが、このような悲しい謂れがあったのですね。
●オペラ座の杮落としと手のひら返し
こうして、二人の建築家の死の翌年の1869年5月、ウィーンの新しいオペラ座は完成します。杮落としは、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」。インペリアルロージェ(皇室貴賓室)には、皇帝フランツ・ヨーゼフと、皇后エリザベートが座り、大々的に新しいオペラ座の完成が祝われました。
そのころには既に、オペラ座前の道の高さは調整され、高低差があまり目立たないようになり、市民からの批判の声もほとんど上がらなかったそうです。
●第二次世界大戦による破壊
こうして、完成以来国民に愛されてきたウィーン国立オペラ座ですが、第二次世界大戦時の爆撃を免れることはできませんでした。米軍の攻撃により、客席と舞台部分は大幅に破壊されますが、正面玄関やフォアイエ(ロビー)、中央階段、ロッギア(開廊)、インペリアルロージェ(皇室貴賓席)は、奇跡的に無傷を保ちました。
戦後の修復期間は10年にも及び、その期間、オペラ座付属のオーケストラや歌手は、第二、第三のオペラ座である、フォルクスオーパーとアン・デア・ウィーン劇場で公演を続けます。とうとう1955年に修復が完了し、新生国立オペラ座は、カール・ベーム指揮により、ベートーヴェンの「フィデリオ」で再び幕を開けます。
現在のウィーン国立オペラ座は、前半分がハプスブルク時代のオリジナルの姿、客席から後ろは、戦後の再建部分となっています。両方の要素が融合しているように見えますが、客席部分を建設当時と再建後を比較すると、大きく異なることがわかります。
また、目の上のたんこぶだったレンガ成金の住宅は、第二次世界大戦の空襲で全壊し、現在の国立オペラ座は、堂々とした「ウィーンの顔」の地位を取り戻しています。
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こうして、さまざまな物語を経て完成し、受け継がれてきた、ウィーン国立オペラ座。建設当時の民衆や皇帝の期待感と、都市計画の被害者となった二人の建築家の事件がまるでなかったかのように、街並みに溶け込んで愛されています。
ウィーンのオペラ座の前に立って、皇帝フランツ・ヨーゼフや、当時のウィーン市民の気分になったつもりで、「このオペラ座は沈んでいるように見えるか?」を検証してみるのも、この音楽の街ならではの楽しみ方かもしれませんね。
文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ(http://www.kaigaikakibito.com/)会員。