取材・文/鳥海美奈子
山形・蔵王連邦のふもとに、その見事なぶどう畑は広がる。うねるような太い主幹、天井を覆いつくすように広がる枝。樹齢80年を数えるという棚仕立てのマスカット・ベーリーAの大樹である。
タケダワイナリーの創業は1920年(大正9年)。日本における、老舗のワイナリーだ。そのラインナップは1000円代のデイリーワインから、1万円近い高級ワインまでと幅広い。
そして、たとえデイリーワインであろうとも、ぶどうの良質さを生かしたスムーズな味わいからは、タケダワイナリーの哲学をはっきりと読み取ることができる。
現在、日本のワイナリーは乱立状態にある。しかし、もし日本ワインの選択に困ったら、タケダワイナリーのものを選べばいい。それほど、信頼に値する。
現在、後を継ぐのは5代目の岸平典子さんである。まもなく100周年を迎えるこのワイナリーに近年、ひとつの”事件”が起こった。
国税庁により「果実酒等の製法品質表示基準」が施行されたのは2018年10月30日のこと。日本のワイン造りの歴史は明治初期にまで遡れるが、これによりワインのラベルに関して初の表示ルールが定められた。
たとえば、それまでは日本産のワインに使われるぶどうが国産でも、海外から輸入したワインや濃縮果汁などでも、特に表記する必要はなかった。
しかし、新しく設けられた「表示基準」では国産ぶどうを使用し、国内で醸造したものに限って「日本ワイン」と表示できると、そう定められた。
その他のものは「国内醸造ワイン」であり、原材料が輸入ワインや濃縮果汁の場合は、その旨もラベルに記さなければならない。
また産地名やぶどう品種、収穫年を明記する場合は、その原料を85%以上使うことも条件とされた。
その日本ワイン法の施行により、タケダワイナリーは看板商品のひとつ「蔵王スター」の名を変えることを余儀なくされた。
「蔵王スター」の歴史は、タケダワイナリーの創業年にまで遡る。1920年に「金星ブドー酒」として発売されたワインを、「蔵王スター」へと改名したのが1979年のこと。
名家である武田家は、地元の栽培農家のぶどうを受け入れ、デイリーワインとして販売してきた。1000円台ということもあり、気軽に飲めるワインとして地元の人々にも愛されてきた。
しかし、今回の法律によれば、「蔵王」と名乗れるのは蔵王国定公園に隣接している市町村で育てられたぶどうのみ。白のデラウエアを栽培する上山市は特に問題なかった。だが赤のマスカット・ベーリーAのおもな産地である天童市は、蔵王連峰からわずかに離れていることから、今回の規定に触れる恐れが出てきた。
「初めて聞いた時は、天童市も該当するのかと驚きました。デイリーワインとして地元の人に愛されてきた『蔵王スター』の名称を切り替えるには、葛藤もあった。たとえば商標権を主張するなどして、名前を残す方法もあったんです。でも長期的に見れば、ここで潔く変えるべきだと思いました。私たちはこの法律の趣旨を理解し、尊重しています。今回の法律がザル法にならないためにも、自主的に変えて範を示すのが、日本ワイン界に一石を投じることになると考えたのです」
表示義務の完全施行に先駆けた2017年、「蔵王スター」は「タケダワイナリー」という銘柄へと変更となった。
典子さんは変化を恐れず、それを逆に好機と捉えた。栓をコルクから、スクリューキャップへ。容量も、日本独自の規格である720mlから国際規格の750mlへと変更した。白赤ともに以前は1200円だったが、「農家の生活を守るためにぶどうの買い取り価格を上げたい」と、1600円にした。
「栽培農家も代替わりして、ぶどうの質も上がっています。今までは”蔵王スターらしい味”を守らなければと思っていましたが、もともとのテイストは残しつつも、これを機により味わいも向上させていきたい」
そして典子さんは、こう言って笑った。
「もともと我が家は、代々新しもの好きなんです。前へ、前へと向かおうとする性質は血筋でしょうね」
そんな進取の気質のルーツは、どこにあるのか。タケダワイナリーを創業した武田家の祖先は、もともと山形市沖の原にある庄屋だった。
「初代はそこの長男でしたが、飲む、打つ、買うなどの放蕩が激しくて、一生食べても充分あまる金は渡すから出て行ってくれと勘当された。それで山形市内に引っ越したそうです。とはいえなにもしないのもと、畑を買ってぶどう、柿、りんごなどを植えた。そのぶどうを使ってワイン造りを始めたのが祖父でした」
典子さんの祖父・3代目の重三郎さんは、将来を見通し、商品作物としてのぶどうにいち早く価値を感じ、栽培に適した土地を探し求めた。
現在のタケダワイナリーの畑がある上山に東南向きの日あたりの良い土地を見つけ、約5ヘクタールにぶどうを植えた。そこは標高150~250m、寒暖差があるためぶどうの酸も糖度も上がる理想的な地だった。
そして当時としては、画期的な「ブドー酒」を造り始める。「蔵王スター」の前進となる「金星ブドー酒」だ。
典子さんの父で4代目の重信さんは東京農業大学醸造学科に入学、さらに醸造試験場で研鑽を積んだ。その試験場の担当指導官などのおかげで、重信さんは当時最高級のフランスワインを飲む機会を得た。
「70~80年代の日本は、まだワインをどうやって造ればいいか、わからない状態でした。父は手あたり次第にワインを飲んで、世のなかにこんなにうまいぶどう酒があるのか、と感銘を受けた。それがロマネ・コンティやボルドーの五大シャトーだったんです。だから始めはカベルネ・ソーヴィニヨン、メルロ、そしてピノ・ノワールも植えた。でもピノ・ノワールは山形で育てるには暖かすぎて、断念したようです」
日本で当時、ヨーロッパ系ぶどう品種を植えていたのはメルシャンなどのいくつかの大手企業のみだった。
個人経営のワイナリーとしては先駆的であり、異例である。しかし、カベルネ・ソービニョンやメルロも、栽培には大変な困難を極めた。植えても、植えても、育たない。そこで重信さんは単身、ヨーロッパへと渡る。そしてフランスのボルドー1級シャトーの土壌調査を行った。
「気づくと、家に父がいない。フランスなどに長く旅して、そのまま1か月ほど帰らないこともありました」
やがて重信さんは、火山灰の粘土質酸性土壌の自らの畑が、ヨーロッパ系ぶどうには適さないと知り、動物の堆肥や貝の化石をまいたりと、有機的な方法で土壌改良に着手する。酸性だったタケダワイナリーの土地は、やがて中性から弱アルカリ性のぶどう栽培に適した土壌に変わった。
そうやって学生時代に憧れた、自ら納得のいくワインを造ることができるまでに20年を要した。そのワインの銘柄には「シャトー」を冠したいと、「シャトー・タケダ」と命名された。1990年のことだった。
その父のもと、典子さんは1966年に生を受けた。玉川大学農学部農芸化学科へ進学したあと、三菱化成の青葉台研究所で微生物の研究に従事する。
醸造学科に進まなかったのは、「ワインを造る仕事に就く決心を、まだしていなかったから。ワイナリーは私の兄が継ぐことになっていたんです」
農業の化学的分野はワインとも繋がりが深く、ともに働く人も親切で良い職場だった。
「それでも、フランスに行きたいという思いはありました。文学や演劇、映画も好きだったので、バルザックやデュマ、スタンダールを生んだあの国に行きたい、と。ワインの勉強なら許してもらえると思って、留学したいと言ったんです」
いまでこそワイン関係者でフランス留学経験のある人は多い。しかし、当時は稀であり、大手のワイナリーに数人いるのみだった。
兄・伸一さんがフランスのボルドーやロワールで3年間ワインの勉強をして帰国するのと入れかわる形で、典子さんの渡仏が決まった。
しかし、兄のときは身元引受人になってくれたフランスの知人も、「女性はなにか問題があると、責任を取れない」と嫌がった。自らその知人に手紙を書き、説得して、そうして留学が実現した。1990年のことである。
まずはフランス国立マコン・ダヴァイ工醸造学校で上級技術者コースを専攻、醸造学者ジャック・ピュイゼ主催のフランス国立味覚研究所で研修、さらにボルドー大学醸造研究所テイスティングコースを修了する。
ワイナリー訪問の機会にも恵まれた。ブルゴーニュのシャンボール村に本拠を置く有名ドメーヌ・ジョルジュ・ルーミエへの訪問は、とりわけ忘れ難いものとなった。
「グラン・クリュ(特級)のボンヌ・マールの1991年を、樽から試飲させてくれたんです。こんなワインを造ることができるのかと、強い衝撃を受けました。それ以来、ルーミエのボンヌ・マールは定期的に飲んでいます」
当時は、ビオディナミ農法の先駆者であるロワールのニコラ・ジョリ、ブルゴーニュでいち早くナチュラルなワイン造りを実践したフィリップ・パカレなどが注目され始めた頃だった。フランスワインは、大きな変化のうねりの渦のなかにあった。
「クラシックなワインも知り、さらにそういう新しい挑戦をする醸造家たちの空気も吸うことができたのは、大きかったと思います。フランスで4年間を過ごして、実家のワイナリーは兄が継いでいるし、日本に帰らなくてもいいかなと思ったこともありました」
しかし、フランスでワイン造りに従事することは、他国で異邦人として生きることを意味した。
「ワインにはテロワール、つまりその土地の土壌や気候風土が反映されます。未知の場所で一からワイン造りをやるより、幼いころから四季の移り変わりを肌で感じてきた山形という故郷こそが、自分にとっての約束の地ではないかと感じたのです」
そうして1994年、典子さんは帰国した。20代の多感な時代をフランスで4年間過ごした経験は、典子さんの精神に決定的な影響を与えたであろうことは、想像に難くない。
「フランスから帰国して、実家でワイン造りを始めましたが、さまざまな葛藤がありました。初年度の94年は雨も多くて、収穫時に痛んだぶどうを取り除く選果も、多湿な日本の気候だとこれほど大変なのかとショックを受けた。醸造に関しても、ひとつひとつをもっと精確に、丁寧にやっていかなければ良いワインは造れないと感じました。カーヴ内の衛生管理ひとつをとっても、徹底されていなかった」
ワイン造りの指揮を執っていたのは父親だったが、同じくフランスで修業した兄が、典子さんの不満の防波堤になってくれた。
「いつも兄に、自分の想いを話していました。でもその兄が、突然の事故で亡くなります。そうすると、心のなかでもやもやしていたものが一気に爆発してしまった。”あー、もう全部違う! こんなやり方じゃだめだ”と」
典子さんは32歳になっていた。そこから、父とワイン造りを巡る確執が始まった。父は、ぶどうの選果にも否定的だった。
「契約農家さんのぶどうを選果しようとすると、”近隣のぶどう農家とはずっと一蓮托生でやってきた。せっかく育ててもらったぶどうを捨てるのか”と言われました。でも私は培養酵母ではなく、自然酵母でワインを醸造したかった。そういう自然酵母で発酵するナチュラルなワインを造るには、ぶどうが良質でなければ無理です。だから”この作業はどうしても必要なことだ”と言うと、”それは、オレにやめろということか”と父は私に迫った。そしてバケツに入っていた、私が選果してはじいたぶどうを頭からかけられて、”帰れ。もう来なくていいい”と。でも、私にはほかに帰るところなんてない。いったい、どこに行けというのか、と思いました」
父・重信さんを擁護すれば、日本のワイン造りは当時、誰もが未熟だった。大学や研究機関でワイン造りを学問として確立しているフランスという伝統国の実情をその目で、その手で、まざまざと知った典子さんが、先駆的すぎたのである。
「その頃いたワイナリーのスタッフも父とともに働いてきた人たちだから、”お嬢ちゃんがフランスから勉強して帰ってきて、うるさく言い出した”という感じの扱いでした。確かに、私も若くて突っ張っていたから、いまになって思えば、言い方は悪かったと思います。もう少し違う言葉や説得の仕方はなかったのかな、と。でも、ただただ、良いワインを造りたいという一心だった。周囲も見えず、まっしぐらに走っていました」
それでも「蔵王スター」の1タンクだけは、典子さんが望むやり方で仕込んだ。すると、ワインの味わいが劇的に変わった。
「そのワインを飲んだ瞬間、父の顔色が変わりました。でも、悔しかったんでしょうね。言葉ではなにも言いませんでした。それ以降、父も含めて周囲が、私のやり方に理解を示してくれるようになったんです」
翌年から、タケダワイナリーのトップ・キュヴェである「シャトー・タケダ」シリーズも、自然酵母で仕込むことになった。
父は醸造に関する主導権は典子さんに渡したが、昔からの農家とのつき合いだけは自分を通そうとした。
「農家さんに、私を飛ばして話をするんです。すると、農家さんたちも”社長の言うことだべ”と父の指示を聞いてしまう。”娘の私がやりたいことをどうして邪魔するの”と言うと、”じゃあ(社長を)やめてやる”と。私も、”やめたら”と父に迫りました」
世代交代の波が、確実に押し寄せていた。最終的には、顧問弁護士を呼んでの話し合いとなった。弁護士とともに、今後は「代表取締役会長」になって欲しいと言うと、父も腹をくくったようだった。
「”代表取締役会長ではなく、単なる取締役でいい”と言ったんです。”船頭多くして船山に登る”ということわざがある。上に立つ人間が多いと統一がとれず、見当違いの方向に進んでしまう。船頭はひとりでいい。代表の肩書きはいらない”と。あの潔い引き際は、いま考えてもすごかったと思います」
2005年のことである。農家の人たちも、典子さんが名実ともに舵を取るようになると、その意見に素直に従ってくれた。「典子ちゃん」から「典子さん」へ、そして「社長」へと呼称も自然に変化を見せた。
昨秋、公開されて話題になった映画に『ウスケボーイズ』がある。ワイン研究家の故・麻井宇介さんを師と仰ぎ、ワイン造りの思想を学んだ、日本の若手醸造家たちの物語である。
典子さんもまた麻井氏には多大な影響を受けたと、そう語る。
「父と交流があって、ときどき家にも来ていたので幼い頃から知っていました。”典子ちゃん”と呼んでかわいがってくださった。節目ごとにさまざまに話をして、含蓄のある言葉をいただいたり。フランスに行く直前にも、”いろんなものを見てくるといい’と声をかけてくださった」
帰国後、父と軋轢があったとき、麻井氏に典子さんは自分の想いをぶつけた。しかし、「あなたにはお父さまがいる」「お父さまの思想を学びなさい」と繰り返し、説かれた。
「フランスなどの海外のワインを模倣するのではなく、日本の山形のテロワール(土地)をワインで表現するなら、自分より父のほうに学ぶべきだと、そう麻井さんは思われていたのでしょう。父のほうが山形のテロワールを知っているから、と。父とは、確かに多くの葛藤ありました。でも、父という土台があって、そのうえで私は新たなチャレンジができたのだと、いまになれば思います。父は私に多くを語らなかったけれど、麻井さんと同じことを伝えようとしたんだと、あとになってわかった。山形という土壌や風土とひたすら向き合い続けた人だったからです。自分ひとりではなにもできないということも、ワインを造るなかで学び取りました」
欧州系ぶどうを日本でいち早く栽培し、フランスへ単身渡り、土壌改良を進めた父。その父もまた、ワイン造りに一途に邁進した人だった。その血を色濃く、彼女は継いだのだ。
「麻井さんは亡くなる直前、こうも語っていました。日本は雨の多い土地だから、ワイン造りには向いていないという”宿命的風土論”を語る人がいる。でも、たとえばボルドーも始めから銘醸地ではなかった。何百年もかけて自分たちの気候風土に有利な土地を作り上げ、品種選抜を続けた。愚痴をいうのではなく、自分たちの土地を見つめて、どうアプローチするかを考えなければならない、と。それから、決して”ワインバカになるな”とも仰っていました。様々なことに興味を抱く教養人でなければ、ワイン造りにおける哲学や思想をつかむことは決してできない、と。父は文学や映画も好きな教養人でもありました。私もそうあらねばならないと日々、肝に銘じています」
そんな典子さんの現在のワイン造りを如実に物語る、いくつかの銘柄がある。そのひとつが、近隣の農家のぶどうで造る「タケダワイナリー サン・スフル」だろう。サン・スフルとはフランス語で亜硫酸塩(SO2)無添加を意味する。
「農家さんが育ててくれるぶどうに付加価値をつけたい。デイリーに飲める身体にやさしい、亜硫酸の少ない、ナチュラルなワインを造りたいとは思っていたんです。2004年の収穫時にマスカット・ベーリーAのぶどうを触っていたとき、皮が厚くて、腐敗果もなかったので、これならサン・スフルでできると直感しました。ワイナリーはその地方の農業を守る、地域振興の役割もあります。サイクルを壊さずに、安定してぶどうを買い続けるのは使命ですし、彼らの要望も聞いています。大手のワイナリーがより高い価格で買わせてくれないかと言ってきたという話も聞くので、ぶどうの買い取り価格も毎年、上げています」
同じくサン・スフルのスパークリングもメソッド・アンセストラルといういま世界で流行している手法を約10年前から、日本でいち早く取り入れた。
発酵中のデラウエアのワインを瓶詰めし、瓶のなかで発酵を継続させると、酵母が生み出す炭酸ガスがワインに溶け込んで、発泡性ワインとなる。ぶどうの澱が瓶のなかに存在しているため、それが複雑な風味や旨味を生む。
近隣の栽培農家のデラウエアは、その魅力をより引き出そうと早摘みのぶどうと、晩熟させたぶどうの両方を使っている。
早摘みは柑橘、レモン、ハーブ、グレープフルーツなど爽快感のある香りや味わいが魅力であり、遅積みで晩熟させたものはパイナップルの皮や杏といったニュアンスが出る。それをブレンドすることにより、フレッシュさと同時に、複雑性や厚みのある味わいになる。
さらには栽培農家のデラウエアの一部と、「ドメイヌ・タケダ」と名付けられた自社畑で栽培するデラウエアは、有核の種ありを使用する。
いま、栽培されるデラウエアのほとんどは無核、つまりは種なしだ。生食用は種無しだと食べやすく、かつ早く熟すので出荷時期が前倒しとなり、付加価値がつく。さらには果実が成熟期に入った頃に多く見られる晩腐病(ばんぷびょう)という病気があり、それにかかるリスクも減る。
そのためジベレリンにより植物ホルモン処理をし、種なしで育てるのが一般的となった。ぶどうに限らず、さまざまな果物栽培で行われている方法だ。
「当初、農家さんにワイン用のデラウエアのぶどうは有核でやりたいと話したら、種ありを育てていたのは祖父の時代までだから、どうやって栽培したらいいかわからないと言われました。でも果皮や種からも旨みが出るので、ワインにはとても大切です」
自社畑のデラウエアは有核のぶどうを100%使い、20時間ほど長くスキンコンタクトする。スキンコンタクトとは、ぶどうを破砕したあと発酵までの一定期間、低温で果汁と果皮を接触させて、果皮や種に含まれているフェノール類などの香り成分を果汁に溶け込ませる方法だ。
その果汁を樽発酵、樽熟成したデラウエアはピュアながら芳醇でボリューム感もあり、鶏や豚肉料理、グラタンなどにも対峙する。
近年、典子さんはデラウエアに多くの可能性を見出しているという。
「最近は9~10月に台風が来たりと、異常気象が普通です。でも、日本で以前から栽培されてきたデラウエアやマスカット・ベーリーAは異常気象に強いように思います。欧州系のぶどう品種より安定している。昨年の2018年収穫のぶどうも、とてもよかった」
山形でワインを造り続けて、約25年。いま、改めてこの地のテロワールをどう感じているのだろう。
「山形は日本のなかでも冷涼な地域なので、クリアな酸が特徴です。さらに寒暖差があるから、フレッシュさと同時に果実感も感じられます。味わいのイメージとしてはオーストリア、高地のブルゴーニュやニュージーランドのスタイルに似た感じではないでしょうか」
現在、日本の新興ワイナリーの多くは、ナチュールワインを志向している。しかし味わいを冷静に評価することなく、「濁っていれば美味しい」「SO2無添加であればいい」といった安易な評価や賛辞に、生産者も消費者も陥りがちだ。
ワインは、ぶどうの質を鏡像のように映し出すものであり、上質なワインを造ろうと思えば、当然ながらぶどう栽培においても、醸造においてもビオ的アプローチは欠かせない。
しかし、そういった造りを踏襲したうえで現在、世界のワイン市場で最高峰と謳われるのは、芳醇な旨みを持ちつつもピュア、かつクリアなワインである。
残念ながら日本には、そういうワインが少ない。なぜなら、それは断じて簡単なことではないからだ。ぶどう栽培や醸造への確かな知識と理解、加えてワイン造りに対する自らの思想や哲学といったものが、絶対的に欠かせない。
その両者を併せ持つ典子さん率いるタケダワイナリーは、そんな王道のワイン造りができる可能性を秘めた、日本で数少ないワイナリーのひとつである。
ひとりの造り手として今後、どのように仕事をしていきたいかと、そう改めて尋ねてみた。
「山形という地のテロワールを追求することに尽きます。それでも、いまもまだワイン造りはトライ&エラーの繰り返しです。環境が年によって違うから当然、ぶどうの質も発酵の仕方も、毎年変わってきます。やればやるほどわからない。それが、25年間ワインを造り続けてきた私の率直な感想です」
考え抜いたうえで、そう答えた。果たして、ワインの造り手としてこれほど真摯な言葉があるだろうか。
取材・文/鳥海美奈子
2004年からフランス・