文・写真/片山虎之介
某雑誌の編集部にBさんという、酒と旨いものに、ちょっとうるさい編集者がいる。数年前にそのBさんと一緒に食事をしたとき、彼がこう言った。
「蕎麦なんてさ、乾麺でいいんだよ。酒のつまみには乾麺で充分」
この言葉を聞いた僕は、いつかBさんに美味しい手打ち蕎麦を食べさせてあげなくては、と思いながら、話題を蕎麦以外のテーマに切り替えたのだった。
その後しばらくして、詩人・評論家・思想家の故・吉本隆明さんのお宅に取材にうかがったときのこと。吉本さんは蕎麦が好物で、いつも召し上がっているという蕎麦を茹でて御馳走してくださった。
その蕎麦が乾麺だったのだ。
新潟県十日町市の玉垣製麺所で作られている「妻有そば」(つまりそば)という乾麺で、この地方の郷土蕎麦である、つなぎに布のり(海藻)を使う「へぎ蕎麦」を乾麺にしたもの。強い弾力のある個性的な蕎麦だった。
ああ、これは食感を楽しむ麺だな、と思いながら、その美味しさに感心していただいた。
■北の大地の農家が作る十割蕎麦の乾麺
北海道は羊蹄山の山麓に広大なソバ畑を持つ農家を取材したことがある。ここは自分の畑で栽培したソバをそのまま出荷するだけでなく、自社工場で蕎麦粉に製粉し、さらに手打ち蕎麦にして供する店も経営する、いわば蕎麦専門の農園レストランである。
畑や蕎麦の店の取材を終えて帰ろうとする僕に、この店のご主人が言った。
「これはうちの畑で穫れたソバで作った乾麺です。よかったら召し上がってみてください」
僕は、ありがたく頂戴して、帰宅した。
さて、家に帰った翌日、早速その乾麺を茹でてみた。内心、あまり期待していなかったのだが、脳裏にあのご主人の笑顔が浮かんできた。丹誠込めて作った蕎麦を頂戴したのだから、やはり、いただかなくては申し訳ない、そう思いながら。
取材旅行から帰った翌日なので、早急に処理しなければならない仕事がたまっていて忙しかった。だから茹でた乾麺を冷水で締めることは省略して、熱いまま茹で湯とともに丼に移し、釜揚げ蕎麦として味わうことにした。
ひとくち食べてハッとなった。これがなんと、びっくりするほど美味しかったのだ。僕の中にある乾麺の概念を覆す旨さだった。
さらに蕎麦湯を飲んで、また驚いた。この乾麺は、つなぎを入れず、蕎麦粉だけで作られた十割蕎麦だった。通常、手打ち蕎麦を茹でたときには、蕎麦を打つ際に振った「打ち粉」が蕎麦湯に多く溶け出す。打ち粉は、ソバの実の中心部分の粉なので、蕎麦特有の香りは希薄で、蕎麦の味も強くはない。
それが、この十割蕎麦の乾麺の場合、製造時に打ち粉を使っていないため、蕎麦湯に溶け出しているのは、麺を形作っている蕎麦粉そのもの。だから茹で湯は、とろりとして、味も濃厚で、とても美味しい蕎麦湯になっていた。こういう蕎麦湯は、手打ち蕎麦では望めないものだろう。
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