灯ともし頃、居酒屋の行灯看板に明かりが点くのを見ると心躍る。
東京・大塚の居酒屋『きたやま』の暖簾を分け、ガラス戸越しに中を窺うのは早稲田大学教授の橋本健二さん。居酒屋愛好家だ。
「入口から壁に掲げられた酒名札を見るのが居酒屋前奏曲ですね。酒のラインナップを見ると、その居酒屋の性格がひと目で判る」
店内に足を踏み入れると店長の小林義尚さんと目が合う。期待と緊張が走る一瞬だが、店長の、「いらっしゃい。何をお飲みになりますか」のひと言で、緊張がスッと解ける。これぞ居酒屋の醍醐味。
「私は普段はフルーティで旨みのある酒から始めますが、今日は我が故郷石川の『手取川』を見つけたので、挨拶代わりに一杯」
カウンター越しに『手取川』が注がれ、橋本さんの顔がほころぶ。そして一升瓶のラベルをじっくり読む。酒自慢の居酒屋は客が一升瓶を手に取ることを厭わない。
「ラベルは酒の情報の宝庫。ここから酒質の見当をつけます。私は店の品書きを見るのが好きで、10分以上眺めていることもあります。この酒とこの料理を合わせて、などと想像するのが楽しいのです」
橋本さんは居酒屋では様々な酒を飲む流儀。多彩な銘柄を楽しむ。
「日本酒は万華鏡です。味わいの変奏を舌と喉で確かめましょう。現在は日本中に意欲的な酒蔵が増え、年々酒は進化しています。伝統ある名酒蔵と若い蔵元の酒を飲み較べるのも興趣があります」
橋本さんが選んだのは『繁桝』。福岡県の八女の酒で、亨保年間創業というから8代将軍吉宗の頃だ。
「口に含むと米の味を感じます。甘口、辛口では分けられない旨みがあります。体幹がしっかりした酒で、伝統の重みを感じます」
酒肴は刺身の三種盛り。日本酒と刺身は王道を往くコンビだ。
さて、次の一杯は酒肴に酒を合わせてみようということで、牛スジの旨煮に『風の森』という意外な選択を橋本さんは試みた。奈良県御所市の酒で、歴史ある蔵だが、若き社長が一途に酒造りに励む。
「まず発泡感に驚きます。フルーティで酸味があり、味のりもよく、新しいタイプの酒といえるでしょう。実はこのフルーティさが牛スジの濃厚な味をサラリと流して、とてもおいしいんです」
この店には定番の『繁桝』『満寿泉』(富山)『手取川』などの他、現代的な銘柄も含めて多種の酒を置いている。店の人と相談しながら飲み較べてみるといい。飲み較べは自分好みの酒の傾向を知るための基本である。
「居酒屋ではどんな酒を飲みたいか自問自答します。私もそうして自分の好みが見えてきたのです」
「燗酒はいかがですか」と店長。
「いいですね。近年の居酒屋は酒の扱いが良くなって、冷やして飲むことが多いのですが、燗をするとまた酒の表情が変わります。温度による飲み口の違いも魅力です」
登場したのが純米酒の『五橋』。『五橋』は山口県岩国の酒だ。米の力を感じさせる酒である。
「うん、燗酒は酒が柔らかくなります。いい酒はどんな飲み方にも応えてくれます。大吟醸をぬる燗にするのもお勧めですよ」
橋本さんは杯と交互に冷水を口に含み、ゆっくり酒を味わう。飲むほどに表情が和らぐ。
「酒を発見し、深く知り、飲み方を指南してくれるのが居酒屋。良き酒場には独自の佇まいがあり、知識も豊富。居酒屋は私にとって社会に開いた窓といえます」
ひとりで飲むもよし、仲間と飲むもよし。居酒屋は酒に対する知見を広げてくれる。さて、今宵も何処かの暖簾をくぐろう。新たな美禄と出会うことを願いつつ。
【酒蔵きたやま】
東京都豊島区南大塚2-44-3
電話:03・3946・5366
営業時間:1階は17時30分~22時30分(最終注文22時)、2階は~22時(最終注文21時30分)
定休日:日曜、祝日、第3土曜
アクセス:JR大塚駅、都電荒川線大塚駅前から徒歩約3分。南大塚通りの南大塚信号先を左に入る。
※この記事は『サライ』本誌2017年1月号より転載しました(取材・文/北吉洋一 撮影/宮地 工)。年齢・肩書き等の情報は取材時のものです。