今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「一字だけなおしたいところがあるが、まだ間に合うか」
--野口雨情
野口雨情は明治15年(1882)、茨城県に生まれた。広大な山林や田畑を所有し、廻船問屋を営む名家の長男。父親は地元(多賀郡北中郷村)の村長もつとめていた。ところが、いつのまにか家産は傾き、明治37年(1904)に父が逝去すると、あとには多額の借金が残されていた。
民謡集『枯草』を自費出版してみたものの一向に売れず、借金取りにも悩まされ、やがて雨情は樺太に行ってひと旗あげようと思いついた。そのための資金として、妻ひろの実家から1000円という大金を借用した。ひろの実家は、栃木県喜連川の素封家だった。
明治39年(1906)夏、雨情は樺太を目指して出発した。けれど、もともとが坊っちゃん育ちで考えが甘い。この樺太行きに際し、なんと雨情は馴染みの芸者を連れていったのである。そして、あろうことか、その芸者に金を持ち逃げされてしまった。
雨情は仕方なく、残った金で貨車一杯のリンゴを買いつけた。値段は本土よりかなり安い。これを東京に送って売りさばき、損を取り戻そうと目論んだ。しかし、いざ東京に戻ってみると、先に送っておいたリンゴは、輸送途中にほとんど腐ってしまっていた。値段の安さばかりに気を取られ、木から落ちた保存のきかないリンゴを買いつけてしまっていたのだった。
明治40年(1907)、25歳の雨情は北海道へ渡る。大学時代の恩師・坪内逍遥の紹介で、札幌の北鳴新聞の記者として働くためだった。以降2年半、流離う如く、道内の新聞社を転々とする。小樽日報では、石川啄木と机を並べて働いた。
大正期に入ると、雨情は童謡詩や歌謡曲の作詞で次第に活躍の場を見いだし、大成していく。『七つの子』『赤い靴』『船頭小唄』などは、今も歌い継がれている。
詩人としては、当然のことながら、一語一句に強いこだわりを持っていた。原稿を1枚1枚、筆でていねいに清書したのも、そのあらわれだった。
あるとき、雑誌『少年倶楽部』の編集部に、雨情があわてた様子で和服の着流し姿のまま駆け込んできた。編集長の加藤謙一が何事かと尋ねると、数日前に郵送した童謡の原稿のことで来たという。その様子からして、よほど大きな直しでもあるのかと思っていると、雨情が口にしたのが掲出のことばだった。
戸惑いつつ原稿を差し出すと、雨情はことば通り、たった1箇所の「てにをは」のみを訂正した。加藤謙一は胸の奥で感嘆した。1文字の「てにをは」の直しなら、電話1本で事足りる。それでも、確実に自らの手で直し、訂正された文字をその目で確認するため、雨情はわざわざ編集部に足を運んだのである。言葉に対する深い思い入れがさせた、詩人ならではの行動であった。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。