今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし」
--永井荷風
東京近郊に終日冷たい雨が降りつづいた昭和27年(1952)11月5日、浅草の老舗高級洋食店「大坂屋」の2階で、ある祝宴が催された。店に残された写真を見ると、主賓は黒縁の丸眼鏡をかけた初老の紳士、浅草ロック座の若い踊り子たちに囲まれご満悦である。
主賓の紳士は、誰あろう、永井荷風。御年73。この2日前、荷風は文化勲章を受賞している。その祝宴だった。
荷風の日記『断腸亭日乗』を繙くと、晩年期にはほぼ連日「浅草」の2字が書き込まれている。荷風は明治12年(1879)生まれだから、この頃73歳。稀代の蕩児は、老いてなお意気軒昂、浅草の猥雑を愛し、通いつめていたのである。
掲出のことばは、昭和11年(1936)1月30日に、荷風が日記に書きつけたもの。つづけて荷風は「鈴木かつ」を筆頭に16の名前を記す。芸妓や娼婦ばかりを相手に、不毛とも称される愛の遍歴を重ねている荷風だった。
荷風はその分、早くから孤独を引き受け、噛みしめている。『断腸亭日乗』にはこんな記述もある。
「今にして思い返せば、わが身に定まる妻のなかりしも幸の一なり、妻なければ子孫もなし、子孫なきが故にいつ死にても気が楽にて心残りのすることなし」(昭和3年12月31日)
「余死する時葬式無用なり。(略)葬式不執行の理由は御神輿の如き霊柩自動車を好まず、又紙製の造花、殊に鳩などつけたる花環を嫌うためなり」(昭和11年2月24日)
浅草での祝宴から7年目となる昭和34年(1959)4月30日、千葉県市川市の荷風の自宅を、近所に住む手伝いの老婦が訪れた。すると、奥の6畳間で蒲団から半身を乗り出すようにして荷風が倒れていた。すでに息はなかった。死因は、胃潰瘍による吐血で引き起こされた心臓発作だった。
残された身の回り品といえば、鍋2つと茶碗、湯飲み、包丁、七輪が各1つ、洋服2着と靴3足、洋傘1本といったところ。森鴎外、幸田露伴、荷風、それぞれの全集に、ゾラなどのフランス原書、そして小さな経机が、わずかに文人らしさを示していた。質朴の極みと言っていい。
ただし、けっして貧窮暮らしの中の死ではない。こうした持ち物とは対照的に、片時も手放さずにいた愛用のボストン・バッグの中には、現金31万円と総額2300万円余りにのぼる預金通帳があった(当時の大学出の公務員の初任給は約1万円)。
「偏奇」を貫いた孤独の死。他人に干渉もしない代わり、干渉されるのも大嫌い。そんな徹底した個人主義に裏付けられた生を貫徹して、荷風は逝ったのである。
なお、誇るべき件の勲章はといえば、無造作に新聞にくるまれ、押し入れの中に放り込んであったという。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。