今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「酒をのむならいくら飲んでも平生の心を失わぬ様に致したし」
--夏目漱石
夏目漱石は下戸で、酒はほとんど飲まなかった。が、門弟たちは適当にたしなみ、中には大酒家と言っていい存在もいた。その代表が鈴木三重吉である。
後年、児童向けの雑誌『赤い鳥』の編集発行人として活躍する鈴木三重吉は、とくに生まれ故郷・広島の酒を愛したといわれる。蔵元から大量に取り寄せ、外で飲むときも一升瓶に詰め替えて持参したという。とはいえ、こうした逸話は、三重吉が幾分か年を重ねて、多少なりと懐具合にゆとりが出てからのものであったろう。若い時分には銘柄にこだわることなく飲んでいたに違いない。
酒量は月3斗余りだったというから、1日1升ほど飲んでいた計算になる。そして、いささか酒癖が悪いところがあったのだ。さすがに師の漱石や高浜虚子、寺田寅彦といった目上の先輩に突っかかるようなことはなかったが、門弟仲間の森田草平や小宮豊隆などには酔うと毒舌を吐いてからんだりした。
掲出のことばは、そんな鈴木三重吉に宛てて、漱石が明治42年(1909)1月24日付で書いた手紙の中の一節。
鈴木はこの前年の秋、東京帝国大学を卒業し、千葉県成田の中学校に教師の職を得て赴任したばかり。漱石は、社会人としてのスタートを祝すとともに、酒を過ごして失敗しないよう「随分酒を御飲過にならぬ様願上候」と釘を刺していた。鈴木も禁酒を誓う旨を手紙で書き送ってきた。漱石は三重吉のこの「英断」を了とし、「御手紙拝見致候。酒を御やめの事当然と存候」と受けて、掲出のことばを書き、さらにこう綴った。
「君の様に一升にも足らぬ酒で組織が変っては如何にも安っぽくてへらへらして不可(いけ)ない。のみならず、はたのものが危険不安の念を起す」
漱石は、頭ごなしに門弟に酒をやめろと強いるような無粋者ではない。とはいえ、鈴木三重吉の場合、酔い方が悪い。本人が慎むというならそれに越したことはないし、飲んでも飲まれてはいけないと注意しているのである。
ところが、鈴木三重吉はこの3か月後、町で酒を飲んで鳶の者と喧嘩をし、眼の上を殴られて入院する羽目になった。入院費なども嵩み、困窮を訴えるこの門弟に対し、漱石は50円の金を送ってやっている。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。