今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「憎い鶏にはエサを飼え」
--柳家金語楼
舞台に出て顔を見せるだけで、場内に笑いの渦が起こる。ひと呼吸おいて、「まだ何も言ってないんで」。観客が再び爆笑する。
柳家金語楼はコメディアン中のコメディアンであった。
生まれは明治34年(1901)。落語家・柳家金勝の長男だった。本名は山下敬太郎。6歳の頃から高座にあがり、大正9年(1920)真打ちに。その4年後、朝鮮羅南の第73連隊に入隊。その体験をもとにした自作落語「兵隊」は大当たりしてレコードにもなり、一躍お茶の間のスターとなった。
人気絶頂の昭和17年(1942)、戦時中の統制で、落語家か俳優(コメディアン)かの二者択一を迫られた。以降、高座にあがることなくコメディアンとして大活躍。NHKテレビの人気番組『ゼスチャー』の白組キャプテンとして記憶している人も多いだろう。
なにしろ売れに売れていた。子息の山下武氏がその著『大正テレビ寄席の芸人たち』に記したところによれば、多忙のあまり厠(かわや)に行く暇もなく、自家用車の中へ溲瓶(しびん)を持ち込んで用を足していたという。
掲出のことばは、そんな柳家金語楼の語録のひとつ。「出る杭は打たれる」のたとえ通り、人気者には風当たりが強い。でも、そういう相手にこそ敵対するのでなく、逆に親切にすべきだ。そうすれば自ずと相手も変わっていく、というのである。
幼少時から大人の世界にまじって荒波をくぐってきた結果、金語楼は独得の処世哲学のようなものを身につけていた。つねに一歩身を引く謙譲の美徳を心得ていた。
一方でプライベートに立ち返ると、金語楼は人間嫌いだったらしい。押し出しは立派だが愛想はなく、身内にも滅多に笑顔も見せない。2歳になった初孫とはじめて対面したときもニコリともせず、孫の方が泣きだしてしまったという。戦後は妾宅を転々としながら、仕事場に通っていた。
舞台や映像でお客さんに見せた、あのタコのような親しみやすい顔つきとは、あまりに対照的な逸話である。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。