はじめに-斎藤龍興とはどのような人物だったのか
戦国時代、美濃国(現在の岐阜県)において一時は織田信長(演:小栗旬)と激しく対立しながらも、志半ばで若くして命を落とした武将がいました。
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する斎藤龍興(さいとう・たつおき、演:濱田龍臣)です。十代で家督を継ぎながら、重臣の離反や信長の侵攻という逆風にさらされ、美濃斎藤氏三代でその歴史に幕を下ろすこととなります。
本記事では、龍興の生涯をたどりながら、彼が生きた時代背景や政変の流れを、史実に基づいて丁寧に解説します。
『豊臣兄弟!』では、優秀な家臣に恵まれながら信長の美濃侵攻により稲葉山城を追われる人物として描かれます。

斎藤龍興が生きた時代
斎藤龍興が生きたのは、戦国時代後期。尾張の織田信長が台頭し、美濃や近畿一円への支配を拡大しつつあった時代です。龍興の祖父・斎藤道三は美濃を掌握し、国盗りの下剋上で一躍名を馳せました。
しかし、道三の死後、父・義龍(よしたつ)の代に入り勢力が不安定になり、龍興の時代には、信長という強敵との抗争の中で領国の求心力を次第に失っていくことになります。
斎藤龍興の生涯と主な出来事
斎藤龍興は天文17年(1548)に生まれ、天正元年(1573)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
父の急死を受け、十代で家督を継ぐ
斎藤龍興は、天文17年(1548)、斎藤義龍の子として誕生。母は近江の戦国大名・浅井久政の娘と伝えられています。永禄4年(1561)に父・義龍が病死すると、わずか13歳で家督を相続し、稲葉山城(現在の岐阜県岐阜市)に拠点を置きます。

しかし、年若い当主となった龍興には政治力・統率力ともに不足していたとされ、次第に領内の支配は不安定になっていきました。特に美濃三人衆と呼ばれた有力家臣、稲葉良通(いなば・よしみち、一鉄)、氏家卜全(うじいえ・ぼくぜん)、安藤守就(あんどう・もりなり)らの支持を得られなかったことが、大きな痛手となります。
信長の侵攻と家臣の離反
永禄10年(1567)、織田信長は美濃に本格的な侵攻を開始します。このころには、美濃三人衆が信長に内応し、龍興のもとを離れていました。内側からの裏切りと外敵の圧力が重なり、斎藤龍興は稲葉山城を捨てて退去。
一方、信長は稲葉山城を手に入れ、「岐阜城」と改称し、天下布武への足がかりとしました。
この出来事により、斎藤氏は美濃の地を追われ、戦国大名としての実権を失います。

落ち延びてなお、反信長の姿勢を貫く
城を失った龍興は、伊勢の長島を経て、摂津(現在の大阪周辺)へと移動。三好三人衆(三好長逸・岩成友通・三好政康)や一向一揆と手を結びながら、反信長の体制を模索します。さらに近江を経て、越前(現在の福井県)の戦国大名・朝倉義景(あさくら・よしかげ)を頼り、その庇護のもとで活動を続けました。
天正元年(1573)、信長が朝倉氏に総攻撃を仕掛けた際、斎藤龍興も朝倉方の一員として出陣。しかし、8月14日、越前・刀禰坂(とねざか)の戦いで敗北し、26歳という若さで戦死しました。
祖父・道三、父・義龍に続く三代目で、美濃斎藤氏の歴史は終焉を迎えたのです。
まとめ
斎藤龍興は、家督を継いだ時期が若すぎたこと、重臣との関係が悪化していたこと、そして信長という非凡な敵の登場といった数々の不運に見舞われた武将でした。戦国大名としての政権維持には至りませんでしたが、城を追われた後も諦めず、各地を転戦して反信長の姿勢を貫いたその姿からは武士の誇りを感じさせます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











