はじめに-藤原賢子はどのような人物だったのか
藤原賢子(ふじわらのけんし/かたこ/かたいこ)は紫式部の一人娘で、大弐三位(だいにのさんみ)の名で歌人としても知られています。紫式部ゆずりの和歌の才能とともに、多くの恋愛のエピソードも語り継がれる賢子。実際にはどのような人物だったのでしょう。史実をベースに紐解きます。
目次
はじめに-藤原賢子はどのような人物だったのか
藤原賢子が生きた時代
藤原賢子の足跡と主な出来事
まとめ
藤原賢子が生きた時代
藤原賢子が物心ついたときから、母の紫式部は一条天皇の中宮・彰子(しょうし/あきこ)に仕えており、宮中ではすでに『源氏物語』が話題を集めていました。和泉式部など女流作家が最盛期を迎えていたこの時期、一条天皇から三条天皇の御代にわたり、摂政・藤原道長が栄華の極みを迎えていました。その後、賢子は、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の時代を生き抜きました。
藤原賢子の足跡と主な出来事
藤原賢子の生没年は不詳ですが、一説には長保元年(999)頃に生まれたと伝わり、80歳を超える長寿を保ったといわれています。その生涯を主な出来事とともに紹介しましょう。
女房として最高位まで出世
藤原賢子は、藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と紫式部の一人娘として生まれます。宣孝は長保3年(1001)に没しましたが、これは賢子が3歳くらいのときのことと考えられており、逆算すれば、賢子の生年は長保元年(999)頃だと推察されます。
寛仁元年(1017)頃、亡き母のあとを継いで上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)に出仕し、母方の祖父・為時(ためとき)の官位から、「越後の弁」と呼ばれました。のちに藤原兼隆(かねたか)と結婚し、娘をもうけますが離婚。長暦元年(1037)頃に高階成章(たかしなのなりあき/なりあきら)と再婚します。
この間、万寿2年(1025)には親仁親王(ちかひとしんのう/のちの後冷泉天皇)の誕生とともに乳母に任じられ、成章が大宰大弐(だざいのだいに)から従三位に上がると、賢子も女房の最高位である従三位典侍(じゅさんみてんじ)へ昇進。歌人として知られる大弐三位(だいにのさんみ)の名はここに由来しています。
【歌人・大弐三位としても活躍、恋多き生涯。次ページに続きます】