はじめに-藤原公任とはどんな人物だったのか?
藤原公任(ふじわらのきんとう)は、平安時代中期の歌人です。関白太政大臣・藤原頼忠(よりただ)の長男で、藤原北家の嫡流である名門・小野宮家の嫡子である公任。和歌や漢詩、管弦に優れ、平安時代を代表する歌人としても知られています。
同じく藤原北家出身の道長とも親交があり、紫式部や清少納言からも高く評価されるほどの才能を持っていたとされますが、実際の藤原公任はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、音曲・漢詩・和歌など文化面に秀でており、道長と友好的な関係にあった人物(演:町田啓太)として描かれます。
目次
はじめに―藤原公任とはどんな人物だったのか?
藤原公任が生きた時代
藤原公任の足跡と主な出来事
まとめ
藤原公任が生きた時代
藤原公任は、康保3年(966)に生まれます。9世紀後期頃、天皇家とのつながりを強めていた藤原氏は、ほかの貴族たちを凌駕するほどに、勢力を拡大していました。中でも、藤原北家は格式高い家柄とされ、周囲から一目置かれる存在でした。
公任は、そんな藤原北家の嫡流である小野宮家に生まれ、素晴らしい才能を持った歌人・文人として、その名を知らしめることとなるのです。
藤原公任の足跡と主な出来事
藤原公任は、康保3年(966)に生まれ、長久2年(1041)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
小野宮家の嫡子として生まれる
藤原公任は、康保3年(966)、関白太政大臣・藤原頼忠と、醍醐(だいご)天皇の孫娘にあたる厳子(げんし)女王の長男として生まれます。父・頼忠は、小野宮家出身だったため、公任は政治の中枢を担う家系と、天皇家の間に生まれたサラブレッドだったと言えるでしょう。
また、公任の姉・遵子(のぶこ/じゅんし)は、時の天皇・円融(えんゆう)天皇の后でした。そのため、公任の元服の際には、天皇が自ら参加したと言われています。非常に身分の高い両親の間に生まれたのです。
家柄の良さと学識の深さを評価され、27歳にして参議(さんぎ、納言に次ぐ公卿のこと)に任命されます。さらに、寛弘6年(1009)には、権大納言にまで昇格することとなったのです。同い年で同じく藤原北家の出身である道長と親交があり、友人のような関係性だったそうです。
【平安時代を代表する歌人・文人として文化面で幅広く活躍する。次ページに続きます】