文化面で幅広く活躍する
上級貴族として、順調な官界生活を送っていたとされる公任。しかし、小野宮家の祖である実頼(さねより、公任の祖父)の弟・師輔(もろすけ、道長の祖父)が、自身の娘を天皇の后にしたことで、権力を掌握していきました。
そのため、小野宮家の勢いは次第に衰え、道長たちの家系が栄えていくこととなったのです。政治的地位こそ道長に及ばないものの、文化面で秀でた才能を発揮した公任。平安時代を代表する歌人・文人として名を馳せました。
仲の良い道長主催の歌合や遊興にはよく出席し、優れた歌を詠んで人々の心を惹きつけたと言われています。中でも、長保元年(999)の秋に開催された嵯峨遊覧の際、大覚寺の滝がなくなったことを惜しんで詠んだ歌は、後に小倉百人一首にもまとめられるほど、高く評価されました。
また、公任の著作活動は多彩で、自身の和歌観を述べた歌論書『新撰髄脳』や、実作を格付けした『和歌九品(わかくほん)』などを執筆しています。歴史や文学、朝廷の儀礼・しきたりなどを研究する有職故実(ゆうそくこじつ)にも精通していた公任は、平安時代の三大故実書の一つである『北山抄(ほくざんしょう)』も著しました。
文化面で幅広く活躍した公任は、平安時代を代表する作家・紫式部や清少納言からも、その才能を高く評価されていたそうです。多数の著作を残し、素晴らしい才能を発揮した公任。万寿元年(1024)頃、出家して京都の北山に隠棲し、長久2年(1041)、76年の生涯に幕を閉じることとなりました。
多才な公任にまつわる逸話
素晴らしい才能を持ち、後世にも名を残すこととなった公任。多才な彼にまつわる逸話は、数多く残されています。中でもよく知られているのが、「三舟の才」です。道長は、大堰川(おおいがわ、京都で最大級の河川)に、和歌・漢詩・管弦の三舟を浮かべ、各舟にその分野の名人を乗せて楽しむ「三舟の遊興」を開催したそうです。
公任は、和歌だけでなく、漢詩や管弦に関しても、他の追随を許さないほど優れていたため、道長は公任がどの舟に乗るのか尋ねたとされます。最終的に、和歌の舟を選んだ公任。そこで優れた歌を詠み、絶賛されますが、漢詩の舟に乗っていればもっと名声が上がったかもしれないと悔やみ、周囲を驚かせたそうです。
この逸話は、平安時代後期に成立した歴史書『大鏡』に記されています。才気煥発だったことはもちろん、自分の実力に相当の自信を持っていた一面も垣間見ることができる逸話ではないでしょうか?
まとめ
学識深く、文化面で優れた才能を発揮した藤原公任。余情美を重視する彼の歌論は、平安時代の和歌を読み解く上でも非常に重要であるとされます。有職故実にも詳しく、素晴らしい歌や著作を多数残した公任は、まさに私たちが想像する平安貴族そのものではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『山川日本史小辞典』(山川出版社)