はじめに-徳川家光とはどんな人物だったのか
徳川家光は、江戸幕府第3代将軍です。秀忠と江の子であり、家康の孫でもあります。乳母として春日局がいたことをご存じの方も多いでしょう。さて、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、大御所である徳川家康に畏敬の念を持つ孫として、描かれます。
目次
はじめに-徳川家光とはどんな人物だったのか?
徳川家光が生きた時代
徳川家光の足跡と主な出来事
まとめ
徳川家光が生きた時代
徳川家光が生まれたのは、慶長9年(1604)。前年には、関ヶ原の戦いの覇者・徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開いています。徳川の治世が始まったとはいえ、豊臣家も存続しており、盤石というには少々早い時代でもありました。
徳川家光の足跡と主な出来事
徳川家光は慶長9年(1604)に生まれ、慶安4年(1651)に没しています。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
2代将軍秀忠と江の子として誕生
慶長9年(1604)7月17日、家光は江戸幕府第2代将軍・秀忠とお市の3女・江の第2子として江戸城西の丸に誕生(※長子は夭逝)。家康の孫にも当たります。
幼名は竹千代(たけちよ)といい、生まれて間もない頃から、乳母であるお福(春日局)に育てられました。ちなみにお福は、明智光秀の家臣だった斎藤利三(としみつ)の子です。
両親の愛情は弟に注がれる…
幼い頃、両親の愛情は、才智に恵まれた弟・国千代(忠長)に注がれたとか……。この時代、「長子相続」はまだ確立していませんでした。そのため、秀忠・江夫婦の偏愛により、次期将軍は忠長に決まりかけていたと言います。
こうした事態を受けて、危機感をいだいた家光の乳母・春日局は、駿府にいる家康に直訴をしたという話が伝わっています。最終的には家康が「嫡庶の序にしたがい、家光が世継ぎ」と定めたのは有名です。この出来事から、家光は終生、祖父・家康を崇敬したと言われています。
ちなみに、秀忠の死後、家光は弟・忠長を改易させた上、自刃へと追いやりました。
かぶき風俗を好み、辻斬のうわさも…
元和元年(1615)、家康と秀忠は、竹千代の守役として酒井忠世・土井利勝・青山忠俊を任命。元和6年(1620)には元服したのち、家光と名乗るようになりました。
この年の前後、世ではかぶき風俗が流行しました。家光もまた、かぶき風俗を好み、髪型や化粧、衣装も影響を受け、躍りに打ち込んでいたとか。この頃、「市中をおしのびで出かけては辻斬をしている」という噂もあったと言われています。こうした素行は、忠俊が強く諫めたことにより、改まったそうです。
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