江戸幕府第3代将軍となる
元和9年(1623)7月27日、父・秀忠とともに上洛して将軍宣下を受けました。しかし、この時、政治の実権を握っていたのは大御所・秀忠でした。
寛永9年(1632)、秀忠が死去すると大御所と将軍の二元政治が解消され、家光が本格的に将軍政治を執り行なうようになります。寛永12年(1635)には武家諸法度(ぶけしょはっと)を改定し、参勤交代を制度化するなどしたことで、幕府政治の基礎を固めたのです。また、前代と同じく御手伝普請(おてつだいぶしん)も諸大名に割り当てられました。こうした制度により、寛永11年(1634)に江戸城西丸が、寛永16年(1639)に本丸が火災に遭った折には、諸国の大名は負担を強いられることになったのです。
結局、こうした負担は農民がかぶることとなり、農民一揆が散発し始めます。中でも、寛永14年(1637)に起きた島原の乱は、キリシタン禁制も絡み壮絶な一揆となりました。幕府は老中・松平信綱(のぶつな)を派遣し、鎮圧。以後、禁教はこれまで以上に厳しくなり、鎖国を促進する結果となりました。その後の寛永16年(1639)、ポルトガル船に日本渡航を禁止したことで鎖国を完成させます。
「慶安御触書」で封建制下の身分・階層性を強調
寛永18年(1641)には、寛永の飢饉(ききん)が起こります。前年から冷害凶作だったため、全国的に起きた江戸時代最初の大飢饉です。この飢饉を受けて、領主財政の基盤である農村の再建が課題として浮き彫りになりました。
そこで幕府は慶安2年(1649)慶安御触書 (けいあんのおふれがき)を出します。これは、江戸時代における農民支配の根本原則となりました。また、封建制下の身分・階層性を強調したのです。これにより、国家的な統治体制を確立させたといっても過言ではないでしょう。
終生持ち続けた家康への敬愛
慶安4年(1651)4月20日、家光は48歳で亡くなりました。法号を大猷院といい、下野国(=現在の栃木県)日光山に葬られています。家光は、死後も家康に仕えられるようにするため、遺骸を日光山の天海の堂の傍に葬るように遺言したそうです。
家光は、家康への崇拝から東照宮の大改築を行ない、家光自身10回も日光へ社参したと言われています。正保3年(1646)には、例幣使 (れいへいし) 発遣を制度化し、東照大権現(だいごんげん)の権威浸透に努めました。しかし、このことで家康以来蓄積していた金銀が失われ、幕府財政窮乏の原因を作ったとも言われています。
まとめ
家光は元来活発で、狩猟や武芸を好む性分だったそうです。しかし、そうした個性は厳しい教育により抑制されたと言います。抑圧された家光の心を支えたのは、本当の母のように慕った春日局が挙げられるでしょう。そして、何よりも心を占めていたのは、家康崇拝であったのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)