はじめに-稲姫とはどんな人物だったのか?
稲姫(小松姫とも呼ばれる)は、本多忠勝の娘です。徳川家との間に常に火種のある、真田家長男・信幸のもとに、稲姫は嫁ぎます。稲姫は芯の通った女性としても知られ、徳川家康や秀忠にも物申すほど、勝ち気であったと言われています。
では、実際の稲姫はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、父・忠勝に似て頑固で肝の据わった女性(演:鳴海唯)として描かれます。
目次
はじめに-稲姫とはどんな人物だったのか?
稲姫の生きた時代
稲姫の足跡と主な出来事
まとめ
稲姫の生きた時代
稲姫が生まれた天正元年(1573)は、15代将軍・足利義昭が織田信長によって京から追放され、室町幕府が滅亡した年です。室町幕府が滅亡した後も、各地で戦が勃発する、激動期であったと言えるでしょう。
戦国時代というと、覇権争いばかりがクローズアップされますが、その裏では戦う武将たちを支えた女性たちが数多くいたのも事実です。稲姫は、そんな女性の一人だと言えます。
稲姫の足跡と主な出来事
稲姫は、天正元年(1573)に生まれ、元和6年(1620)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
本多忠勝の娘として誕生。その後、真田信幸の妻に
稲姫は、天正元年(1573)に徳川家康の重臣であり、徳川四天王の一人でもある、本多忠勝の娘として誕生します。その後、天正17年(1589)17歳の時に家康の養女となり、上田城城主・真田昌幸の長男である、真田信幸に嫁ぎました。
稲姫が真田信幸の元に嫁いだ背景には、諸説あります。天正13年(1585)の第一次上田合戦において真田軍が徳川の大軍に勝ったことを挙げる説もあれば、豊臣秀吉の仲立ちによる縁談であったという説もあります。はたまた、列座する大名の中から稲姫が信幸を選んだという説まであります。いずれにしても、はっきりとした理由は未だわかっておりません。
【義父・昌幸の沼田城入城を拒否。次ページに続きます】