はじめに-石田三成とはどんな人物だったのか
石田三成(いしだ・みつなり)は、豊臣政権の五奉行の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の中心人物として東軍の家康と戦うも敗れて処刑されたことが知られていますが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、巨大な豊臣政権の実務を担う、優れた頭脳の持ち主で、秀吉への忠義を重んじることで、やがて家康と対立することになる人物(演:中村七之助)として、描かれます。
目次
はじめに-石田三成とはどんな人物だったのか
石田三成が生きた時代
石田三成の足跡と主な出来事
まとめ
石田三成が生きた時代
戦国大名の書状の多くは自筆ではなく、「右筆(ゆうひつ)」と呼ばれる主人に代わって文章を代筆した家臣に書かれていました。右筆は書状や公文書の発行に関わったので、その役割は大きいものだったのです。石田三成は秀吉の右筆として抜擢されたことが、出世の糸口となりました。
石田三成の足跡と主な出来事
石田三成は生年が永禄3年(1560)で、没年が慶長5年(1600)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
寺の小姓から豊臣政権の官史へ
三成は永禄3年(1560)に、近江坂田郡石田村(=現在の滋賀県長浜市)に生まれます。秀吉が近江の長浜城主であったころにその才能を認められ、年少の時からその側に仕えていました。
秀吉と三成の出会いについては、「三献の茶」という有名な逸話が残されています。長浜城主になって間もない秀吉が鷹狩の帰り道に、法華寺(ほっけじ)に立ち寄りました。 喉が渇いていたので、そこの小姓にお茶を出してくれるように頼むと、大きい茶碗にぬるめのお茶がなみなみと入っていました。すぐに飲み干した秀吉はもう一杯頼むと、次に出てきたのは茶碗半分ほどにさっきよりもやや熱いお茶。気になった秀吉はさらにもう一杯頼むと、出てきたのは小さな茶碗に入った熱いお茶でした。
秀吉は、茶の入れ方一つにも相手のことを気遣う小姓を気に入り、召し抱えることに。その小姓こそが、のちの石田三成だったのです。
秀吉の中国征伐や山崎の戦いにも従軍し、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで軍功を立てました。この戦いでは、三成は情報収集と分析というインテリジェンスを担当し、敵方の事情・地形・気候などの情報を集めて秀吉の作戦立案に大きな貢献をすることに。
天正13年(1585)、秀吉が関白に任官されると、諸大夫12人の1人に選ばれて、従五位下(じゅごいのげ)治部少輔(じぶしょう)に叙任されます。さらに秀吉の奉行として政権運営にも関与し、一時期堺の奉行も兼任。豊臣氏直属の吏僚の中でも、“随一の奉行”と評価されるようになりました。九州遠征では兵站(へいたん)を管理し、島津氏との折衝にあたったり、博多の町の再興を指揮したりしています。
また、天正18年(1590)の小田原合戦では、北条方の忍城(埼玉県行田市)の攻略を命じられます。秀吉から出ていた作戦指示は、城を洪水で孤立させる水攻めでしたが、三成は水攻めが妥当ではないと判断し、秀吉に対して積極的に攻めることを提案します。しかし、秀吉の指示は変わりませんでした。秀吉が水攻めにこだわった理由として、自身が持つ強大な力を示すためにあえて手間とお金がかかる水攻めを選んだと考えられています。
結局のところ、忍城は水攻めでも陥落せず、最後まで持ちこたえました。小田原合戦の後は、東北地方に向かい、諸大名への対応や一揆・反乱の鎮圧にあたっています。
文禄元年(1592)の朝鮮出兵に際しては、船奉行として渡航部隊の輸送にあたり、さらに碧蹄館(へきていかん)の戦いでは小早川隆景らとともに明軍と交戦。その後、戦況を見極めながら、小西行長らとともに明軍との間に和平交渉を進めますが、交渉は失敗。慶長2年(1597)に再び遠征が行なわれます。しかし、秀吉が死去したため、三成は博多に赴いて、朝鮮からの部隊の撤退を指揮しました。
朝鮮出兵では、前線で戦っていた武将らとの溝が深まることに。三成は主に内政を担当し、朝鮮での戦果が振るわなかった大名の改易や減封に関わっていたので、前線で戦っていた武将たちから反発を受けたと考えられます。
これが契機となり、慶長4年(1599)に加藤清正・黒田長政・福島正則・藤堂高虎・浅野幸長ら7人の武将が、三成暗殺を計画します。しかし、徳川家康の説得によって暗殺は中止され、三成は佐和山(さわやま)城に逃れて辛うじて難を免れました。
家康のおかげで助かった三成でしたが、日に日に勢力を拡大する家康には警戒しており、家康を打倒するチャンスをうかがっていました。
【家康打倒を西国の大名に呼びかけ、関ヶ原で決戦。次ページに続きます】