家康打倒を西国の大名に呼びかけ、関ヶ原で決戦
慶長5年(1600)、会津で挙兵した上杉景勝の討伐のために家康が会津に向かうと、これを好機と見た三成は毛利輝元を盟主にして家康打倒を西国の大名に呼びかけます。三成の誘いに応じて挙兵した諸大名は、毛利輝元・小早川秀秋・吉川広家・宇喜多秀家・島津義弘・鍋島勝茂・伊東祐兵・立花宗茂・長宗我部盛親・小西行長などでその多くは西国の大名でした。
三成は東軍を迎え討つため佐和山城を出発、大垣城に入り、西軍の諸将も美濃に集結します。会津征伐から引き返してきた家康も西に向かいました。東西両軍はその年の9月15日、関ヶ原で決戦を展開。当初西軍がやや優勢でしたが、小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成らは敗走。
三成は、近江伊香郡古橋村(木之本町古橋)に潜んでいるところを捕えられて、10月1日に京都の六条河原で処刑されました。処刑の間近、喉の渇いた三成は水を求めます。しかし、渡されたのは近くの民家にあった干し柿でした。すると、三成は「柿は痰の毒だからいらない」と拒否。「もうすぐ死ぬというのに」と周囲の者は笑いましたが、三成は「大志を持つ者は最期まで命を惜しむものだ」と最後まで再起をあきらめていなかったことがうかがえます。
「大一大万大吉」
三成は「大一大万大吉」という言葉を旗印に用いました。意味としては「1人が万民のために、万民は1人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」というもの。三成の肖像画の着物の襟周辺にもこの文言が記されていることから、日頃からそれを強く意識していたのかもしれません。
まとめ
三成は敗軍の将として否定的に見られることもありますが、三成自身の豊臣政権における事務能力の高さや、多くの諸将が家康に寝返る中、自身は死ぬまで秀吉への忠義を貫いたことは再評価されています。三成に対する見方も、大きく変わりつつあるようです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
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