文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
世界遺産「ウィーン歴史的地区」に含まれる「ベルヴェデーレ宮殿」。クリムトの代表的絵画「キス」を所蔵している美術館として知られるこの宮殿は、今年300周年を迎える。周年イベントとして、その歴史を振り返る特別展が開催中のほか、クリムトに影響を与えた芸術家たちに焦点を当てた特別展も大きな注目を浴びた。
国の英雄「オイゲン公」の夏の離宮として建てられ、ハプスブルク家と共にオーストリアの歴史を見守ってきたベルヴェデーレ宮殿。その美しい建物と庭園を、300年の歴史と共に振り返りつつ紹介する。
バロック様式の宮殿と庭園を歩く
ベルヴェデーレ宮殿は、165平方メートルの広大な敷地の両端に建つ、「上宮」と「下宮」両方の建物を指す。バロック庭園を挟んで上宮が下宮より23メートル高い位置にあり、ウィーンの町を見下ろす眺望を楽しむことができる絶好の立地だ。
現在は上宮と下宮両方が美術館となっている。上宮には「キス」をはじめとするグスタフ・クリムトの絵画や、エゴン・シーレなどのウィーン世紀末芸術の常設展を求めて、多くの観光客が押し寄せる。下宮では期間限定の特別展が開催され、地元のリピーターも多い。
ベルヴェデーレの庭園は、無料で市民に公開されていて、自由に歩き回ることができる。フランス風のバロック庭園は、色とりどりの花に彩られた幾何学模様や数々の彫像が印象的だ。
敷地には植物園やアルプス庭園も隣接しているほか、ウィーンで初めて造られた「オランジュリー」も現在は特別展会場となっている。オランジュリーとは、寒さに弱いオレンジなどの柑橘系植物を育てるために貴族が好んで建てた、温室の原型となる建物だ。
参考:世界遺産「シェーンブルン宮殿」の庭園に造られた、ハプスブルク皇帝の愛した4つの「温室」の謎 https://serai.jp/tour/1092698
宮殿は誰のもの?
有力貴族オイゲン公が、自らの夏の離宮として建てたのが、ベルヴェデーレ宮殿の始まりだ。オイゲン公は、三代に渡ってハプスブルク家に仕えた軍人で、第二次ウィーン包囲では、オスマン・トルコ軍に包囲されていたウィーンの町を解放に導いた、国の英雄だ。
晩年のオイゲン公は、ウィーンの中心部に「冬の宮殿」を建てた後、少し離れた敷地に夏の離宮としてベルヴェデーレ宮殿下宮を建設し、ここを住居とした。上宮は1723年に完成し、迎賓館として使用された。
オイゲン公の死後は姪が相続したが、その後ハプスブルク家君主であったマリア・テレジアに売却された。マリア・テレジアの娘にあたるマリー・アントワネットと後のフランス王ルイ16世の結婚披露宴が1770年に開かれたのも、この宮殿だ。
マリア・テレジアの息子ヨーゼフ二世は、皇室の絵画コレクションをこの宮殿に展示し、庭園と共に一般庶民に開放することを決定する。こうして1777年、世界初の公開美術館がここに誕生した。絵画が美術史美術館に移動されるまでの100年以上もの間、庶民がハプスブルク家の名画を堪能しつつ、優雅なバロック庭園を散策できる貴重な場となった。
20世紀に入ってこの宮殿に居を構えたのは、皇位継承者フランツ・フェルディナントだった。後にサラエヴォ事件で暗殺され、第1次世界大戦の幕開けのきっかけとなる人物だが、若いころは世界旅行で日本にも訪れている。各国から持ち帰られた膨大なコレクション1万8千点がここに収められた。
同時期、作曲家ブルックナーもこの敷地内で暮らしていた。ブルックナーは皇帝フランツ・ヨーゼフの娘マリー・ヴァレリーの結婚式の場でオルガン演奏を行う等、ハプスブルク家との縁が深い。皇帝一家がその功績を讃えて、上宮の横にある建物を提供し、ブルックナーはここで晩年を過ごした。
下宮は並行して、オーストリア人芸術家による現代美術館としての一歩を踏み出していた。目玉であるクリムトの「キス」も展示され、「オーストリア・ギャラリー」と呼称されたのもこの頃だ。1915年以降はユダヤ人富豪たちからの多数の寄贈や、その後は没収された美術品により、コレクションが増大した。
第1次世界大戦を経て帝国が崩壊すると、ベルヴェデーレ宮殿はオーストリア共和国に引き継がれ、国有となる。国を代表するバロック、19世紀、現代美術の作品を展示するため、美術館は上宮にも拡大され、ハプスブルク家を失った国の新しいアイデンティティ構築を担う場となった。
第2次世界大戦の敗戦に伴い、オーストリアは戦勝国に分割占領される。空爆で損傷を受けた宮殿も、修復が急がれた。10年間もの占領期間が終わり、1955年にオーストリア解放条約が締結されたのがこの宮殿だ。当時の外務大臣レオポルト・フィーグルが調印後の条約を掲げ、宮殿のバルコニーから「オーストリアは自由だ!」と宣言する場面は、オーストリア人にとっての歴史的瞬間となった。
現在では、クリムトやシーレ、ココシュカ等の世紀末芸術やユーゲントシュティル芸術と、一部のバロック芸術が上宮に常設展示されている。下宮は主に特別展の会場となっているが、中世からルネサンスの宗教絵画の常設展など、ここでしか見られない貴重な展示も見逃せない。ベルヴェデーレ300周年の今年は、オーストリアの芸術史、政治史と美術館の歩みを振り返る特別展が開催されている。
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オーストリアの国を代表する名画たちと、バロック時代の優雅な貴族の生活が垣間見られる宮殿たち。世界中から絵画ファンが押しかけ、ウィーンの世紀末芸術に感嘆の声を上げる中、近隣の人たちは家族連れで庭園を散歩し、美しい季節の花を楽しむ。
オイゲン公やマリー・アントワネットが散歩した庭園で、この国の成り立ちに思いを馳せながら、ゆったりと300年の歴史を感じてみよう。
公式サイト:https://www.belvedere.at
住所:ベルヴェデーレ上宮(Oberes Belvedere)
Prinz Eugen-Straße 27, 1030 Wien
ベルヴェデーレ下宮 (Unteres Belvedere)
Rennweg 6, 1030 Wien
文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。歴史、社会、文化系記事を得意とし、『ハプスブルク事典』(丸善出版)など専門書への寄稿の他、監修やラジオ出演も。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。