はじめに-森長可とはどんな人物だったのか?
森長可(もり・ながよし)とは、安土桃山時代の武将です。幼くして織田信長に仕え、彼の主要な戦にも従軍するようになります。武田征伐での功績を称えられ、信濃国(現在の長野県)の高井・水内・更科・埴科(はにしな)の4郡を与えられました。
気性が荒く、武勇にも優れたことから、「鬼武蔵」と呼ばれて恐れられていた長可。猪突猛進という言葉が似合うようにも感じますが、実際の森長可はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
目次
はじめに―森長可とはどんな人物だったのか?
森長可が生きた時代
森長可の足跡と主な出来事
まとめ
森長可が生きた時代
森長可は、永禄元年(1558)に生まれます。父の森可成(よしなり)は信長の宿老で、信長を献身的に支えた人物として知られています。そのため、長可も幼少の頃から信長の家臣として仕えるようになり、弟の森乱(森蘭丸とも呼ばれる)とともに、信長から信頼を寄せられることとなったのです。
森長可の足跡と主な出来事
森長可は、永禄元年(1558)に生まれ、天正12年(1584)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
森可成の子として生まれる、信長に仕える
森長可は、永禄元年(1558)、森可成の次男として生まれます。父の森可成は家臣団の中でも特に忠臣として知られ、信長から厚く信頼されていたそうです。元亀元年(1570)、「姉川の戦い」で可成が戦死すると、長可は幼くして家督を継ぎ、美濃金山城(現在の岐阜県可児市にあった城)の城主となりました。
そして、信長は長可とその弟の成利(なりとし、森乱の本名)・坊丸・力丸を家臣として迎え入れたのです。森乱が信長から大変可愛がられたという逸話は数多く残されていますが、長可もまた、信長から信頼を置かれていました。
一説では、信長から「長」の字を与えられたことで、「長可」という名前になったと言われています。信長は、宿老として最期まで自分を支えてくれた可成に対し、彼なりの恩返しをしていたのかもしれません。
その後、天正2年(1574)の「長島一向一揆」に従軍した長可。信長とともに、各地を歴戦することとなったのです。
武田征伐で活躍、信長の死
父と同じく、忠臣として信長を献身的に支えた長可は、天正10年(1582)の「武田征伐」に従軍し、勇猛果敢に敵陣に攻め込み、武田氏を滅亡へと追い込みました。その戦功を称えられ、信濃国の高井・水内・更科・埴科の4郡と、海津城(かいづじょう、現在の長野県長野市にあった城)を与えられることに。
そして、信長の命で越後国(現在の新潟県)の上杉氏と戦うことになり、越後へと侵攻。しかし戦いの途中で、明智光秀の謀反により、信長が自害へと追い込まれたという衝撃的な知らせを耳にします。
「本能寺の変」として知られる出来事ですが、信長だけでなく成利・坊丸・力丸も一緒に亡くなってしまったのです。主君と弟たちの突然の死は、長可を深く悲しませたことでしょう。
【「小牧・長久手の戦い」と無念の最後。次ページに続きます】