「小牧・長久手の戦い」と無念の最後
信長の死を受け、敵討ちをするべく京都へと向かった長可。しかし、敵討ちはすでに秀吉が済ませていました。その後、信長の孫・三法師を後継者に推薦する秀吉と、信長の三男・信孝を推す柴田勝家が対立することに。
二人の対立が決定的なものとなり勃発した「賤ケ岳の戦い」では、秀吉が勝利し、ますます勢力を拡大していきました。一方、秀吉の勢力拡大に不満を募らせた信雄(のぶかつ、信長の次男)は、信長の同盟相手だった家康に接近。天正12年(1584)、秀吉勢力を排除すべく「小牧・長久手の戦い」を勃発させたのです。
この戦いで、長可は舅の池田恒興とともに、秀吉に味方しました。果敢に戦った長可でしたが、家康軍の奇襲に遭い、敗北を喫することに。そして、途中で鉄砲隊に眉間を撃ち抜かれ、27年という短い生涯に幕を閉じることとなったのです。
長可には、「本能寺の変」で亡くなった3人の弟のほかに、忠政(ただまさ)という末弟がいました。長可は、たった一人残されることとなった忠政のことを案じながら、旅立っていったのかもしれません。
まとめ
忠臣だった父と同じく、信長を支え続けた森長可。「鬼武蔵」という異名がつけられるほど、猛々しく戦ったとされますが、信長は長可のそのような一面も高く評価していたのかもしれません。若くして武勇に優れた長可もまた、戦国の荒波に儚く散っていくこととなったのでした。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)
『世界大百科事典』(平凡社)