はじめに-池田恒興とはどんな人物だったのか?
池田恒興(つねおき)とは、安土桃山時代に生きた武将です。生母が信長の乳母を務めたこともあり、幼い頃から信長とは実の兄弟のような関係だったとされます。そのため、小姓として信長に仕えるようになった際も、一族に等しい厚遇を受けていたそうです。
信長の重臣として、彼を支えた恒興。信長の死後、その息子ではなく秀吉に仕えるようになったことから、人を見る目に長けた人物というイメージがありますが、実際の池田恒興はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、清洲会議後に力をつけだした織田家の重臣(演:徳重聡)として描かれます。
目次
はじめに―池田恒興とはどんな人物だったのか?
池田恒興が生きた時代
池田恒興の足跡と主な出来事
まとめ
池田恒興が生きた時代
池田恒興は、天文5年(1536)に生まれます。幼い頃から、信長とつながりがあった恒興。信長の死後、秀吉に仕えるようになるまで、織田家の重臣として信長を支え続けることになるのです。
池田恒興の足跡と主な出来事
池田恒興は、天文5年(1536)に生まれ、天正12年(1584)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
織田家に仕える
池田恒興は、天文5年(1536)、池田恒利(つねとし)の子として生まれます。また、恒興の母・養徳院は、信長の乳母を務めた人物です。授乳中に乳母の乳房を噛み、困らせたことで知られている信長ですが、養徳院にだけは手荒なことをしなかったという逸話が残されています。
年齢が近いこともあり、信長とは実の兄弟のような関係だった恒興。幼少の頃から信長と過ごし、小姓として仕えるようになりました。
「桶狭間の戦い」で活躍する
永禄3年(1560)に勃発した「桶狭間の戦い」。恒興は、信長に与して今川義元の軍勢と戦うことになりました。義元は、まだ若い信長と違って戦の経験が豊富で、兵力も十分にありました。無謀とも言えるこの戦いで、信長が勝利できたのは、恒興含む家臣団の団結力が強かったからとも考えられています。
「桶狭間の戦い」での功績を称えられ、その後も信長の戦に従軍。元亀元年(1570)には、尾張国の犬山城(愛知県犬山市にあった城)を与えられることに。
さらに、天正7年(1579)、信長から謀反の嫌疑をかけられていた荒木村重(むらしげ)を摂津にて破り、有馬・尼崎・花隈(はなくま、現在の兵庫県神戸市)の諸城も与えられました。
秀吉に仕える
数々の戦で信長を支え、重臣として信頼されていた恒興は、天正10年(1582)、光秀の謀反によって信長が自害に追い込まれたという衝撃的な知らせを耳にします。信長の仇を討つべく、毛利氏との戦を休戦して京都に駆け付けた秀吉とともに、恒興は光秀を滅ぼしました。
その後、開かれた「清洲会議」にて、信長の後継者に彼の孫・三法師を推す秀吉と、三男・信孝(のぶたか)を推す柴田勝家とで対立を深めることに。この時、恒興は秀吉の提案に賛成したそうです。一説によると、秀吉が「賛成してくれた暁には、恒興の希望に沿った遺領配分を行う」と約束したと言われていますが、真相はわかっていません。
これにより、三法師が後継者に決定し、秀吉がますます力を増大させることとなりました。そして、恒興は秀吉に仕えるようになり、天正11年(1583)に起こった「賤ケ岳の戦い」にも、秀吉に与して参戦。その功績を称えられ、美濃国(現在の岐阜県)13万石を与えられたのです。
【「小牧・長久手の戦い」と、壮絶な最期。次ページに続きます】