文/池上信次

「イパネマの娘」にまつわるエピソードの紹介を続けます。前回までに、「イパネマの娘」の作曲者のアントニオ・カルロス・ジョビンがアメリカの出版社(者)に原歌詞(ヴィニシウス・ジ・モライスによるポルトガル語詞)の良さを伝えるために、デモ・テープを作ってアピールしたことや、シングル盤はプロデューサーがアメリカでのヒットを意識し、ジョアン・ジルベルトの歌唱部分(ポルトガル語)をすべてカットし、アストラッド・ジルベルトの英語歌唱をメインに編集して発売したというエピソードを紹介しました。

そしてそのジョビンの努力とプロデューサーの戦略によって、「イパネマの娘」は世界的な大ヒットとなりました。この2件は「伝説」ではなく事実であり、ジャズとしては最大級のヒット・シングルの制作裏話としてこれからも語り継がれていくことになるでしょうが、それはあくまでアメリカを中心とした話。じつはこの曲が発表された当時の日本は、アメリカとはかなり状況が異なっていたのでした。

アメリカで「イパネマの娘」収録アルバム『ゲッツ/ジルベルト』(Verve)がリリースされたのは、1964年3月のこと。シングル盤はその2か月後の5月にリリースされています。『ゲッツ/ジルベルト』の日本盤発売は同年11月で、発売と同時にジャズ専門誌『スイングジャーナル』で大きく取り上げていることから見ても、ボサ・ノヴァは日本でも注目されていた新しい音楽だったことがうかがえます。そして日本盤のシングルがリリースされたのは翌1965年の春ごろでした。「イパネマの娘」が日本で一般的なヒットとなるのはそこからということになりますが、なんとそのシングル盤とは……。


スタン・ゲッツ楽団『イパネマの娘/スイート・レイン』(シングル/MGM)
演奏:スタン・ゲッツ(テナー・サックス)、アストラッド・ジルベルト(ヴォーカル)、ゲイリー・バートン(ヴァイブラフォン)、ジーン・チェリコ(ベース)、ジョー・ハント(ドラムス)
この音源は、同じメンバーによるアルバム『ゲッツ・オー・ゴーゴー』には未収録。この「イパネマの娘」のタイムは2分49秒、アメリカ盤「編集」シングルは2分44秒と、ほとんど変わりません。

このシングル盤は『ゲッツ/ジルベルト』からの「編集版」ではなく、MGM映画『クレイジー・ジャンボリー(原題:Get Yourself A College Girl)』のサウンドトラック盤としてのリリースだったのでした。この映画は、アストラッドとスタン・ゲッツ、ジミー・スミス(オルガン)、アニマルズやデイヴ・クラーク・ファイヴら、当時人気のミュージシャンが多数出演して演奏もする青春物語です。が、それはともかく、この音源にはジョアンもジョビンも参加していないのです。名義は「スタン・ゲッツ楽団、アストラッド・ジルベルト(歌)」、盤面では「Stan Getz & Astrud Gilberto」。当時日本ではアメリカ盤シングルはほとんど流通していないしょうから、件の「編集」については話題にはなり得なかったのです。

ジョアンもジョビンも不在の「ボサ・ノヴァ」。演奏しているのはゲッツの新作『ゲッツ・オー・ゴーゴー』(Verve)のメンバーで、ゲッツのグループはヒットのさなかの65年7月に来日公演をしていますので、「ボサ・ノヴァ=ゲッツの(ジャズの)新しい音楽」という認識となってもまったく不思議なことではないでしょう。『ゲッツ/(ジョアン)ジルベルト』を『ゲッツ/(アストラッド)ジルベルト』と錯誤しそう。

主役のひとり、アストラッドは68年1月に初来日。その後何度も来日公演を行なう人気でした。そして1969年に『ゴールデン・ジャパニーズ・アルバム』を録音しました。これは、知る人ぞ知る「全曲日本語」アルバムなのです。


アストラッド・ジルベルト『ゴールデン・ジャパニーズ・アルバム』(Verve)
演奏:アストラッド・ジルベルト(ヴォーカル)、山木幸三郎(編曲)、ほか
録音:1969年
ビッグバンドをバックに、全12曲を日本語で歌う意欲作。長らく「幻」の作品でしたが、2003年に日本で世界初CD化されました。

渡辺貞夫作曲のポップス曲「ストリート・サンバ」「白い波」や、映画音楽「パリのめぐり逢い」「男と女」、ブラジル・スタンダード「黒いオルフェ」「マシュ・ケ・ナダ」などが収録されているのですが、なんと「イパネマの娘」も日本語で歌っているのです(英語歌詞を元にした保富庚午による日本語歌詞)。アルバムは日本でしかリリースされませんでしたので、おそらくジョビンは知らなかったと思いますが、アメリカ進出の際の「外国語詞」の苦労も、日本では意味がないものになってしまっていたのです(まあ、大ヒット後ということもありますが)。ちなみに、アストラッドはイタリア語アルバム(『Canta In Italiano』1968年)も作っていますが、そこでは「イパネマの娘」は歌われていません。

と、「イパネマの娘」についてはさまざまなエピソードがあるのですが、これはそれだけこの曲が広く愛されているということなのでしょう。

「イパネマの娘伝説」
ボサ・ノヴァ歌姫、アストラッド・ジルベルトの伝説を検証する【ジャズを聴く技術 〜ジャズ「プロ・リスナー」への道211】 https://serai.jp/hobby/1134977
ボサ・ノヴァ歌姫、アストラッド・ジルベルトの伝説を検証する(2)【ジャズを聴く技術 〜ジャズ「プロ・リスナー」への道212】https://serai.jp/hobby/1136125

文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中。(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(シンコーミュージック・エンタテイメント)、『後藤雅洋監修/ゼロから分かる!ジャズ入門』(世界文化社)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。

 

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