文/池上信次

前回(https://serai.jp/hobby/1134977)では「イパネマの娘伝説」を、アストラッド・ジルベルト当人の発言から検証しましたが、今回はさらにいくつかの資料で補強してみたいと思います。


スタン・ゲッツ&ジョアン・ジルベルト『ゲッツ/ジルベルト』(Verve)
演奏:スタン・ゲッツ(テナー・サックス)、ジョアン・ジルベルト(ヴォーカル、ギター)、アントニオ・カルロス・ジョビン(ピアノ)、トミー・ウィリアムス(ベース)、ミルトン・バナナ(ドラムス)、アストラッド・ジルベルト(ヴォーカル)
録音:1963年3月18、19日
クレジット上では、ベーシストはトミー・ウィリアムスとなっていますが、じつはセバスチャン・ネト。誤記か変名なのかはわかりませんが、CDでは現在も訂正されていません。

1996年に著されたアントニオ・カルロス・ジョビンの評伝『アントニオ・カルロス・ジョビン ボサノヴァを創った男』(エレーナ・ジョビン著、国安真奈訳、青土社1998年刊)には、このようにあります。1963年ごろの話で、アメリカの出版社(者)たちが、自分の曲に馬鹿げた英語歌詞をつけようとしていることに憤慨していたジョビンについて。

「彼(ジョビン)は英詞にも、詩的なカリオカらしい雰囲気を盛り込んで欲しいと思っていた。(中略)そこで彼は、アストラッド・ジルベルトを呼んで、出版者たちに聴かせるデモ・テープを作った。ノーマン・ギンブルにも、英語でどうやって歌うのかを教えるために、これを聴かせ、ようやく安心することができた」

この文章からは、デモで歌っているのはポルトガル語原歌詞にも仮の英語歌詞のようにも読めますが、いずれにせよアストラッドはジョビンに信頼される「シンガー」で、ノーマン・ギンベル(ギンブル)による英語歌詞完成前に、すでに「イパネマの娘」を歌っていたということがわかります。

ジョビンは『ゲッツ/ジルベルト』録音の2か月後に、自身の名義でのアメリカ・デビュー・アルバムを録音しています。それはクラウス・オガーマンのアレンジによるストリングス入りインスト・アルバム『イパネマの娘(原題:コンポーザー・オブ・デサフィナード・プレイズ)』(ヴァーヴ)で、その1曲目は「イパネマの娘」。このアルバムの発売は63年8月、『ゲッツ/ジルベルト』発売は64年の3月ですから順序は逆になりましたが、「イパネマの娘」はジョビンのアメリカ・デビューのために周到に準備した「とっておきの1曲」だったと推測されます。

また1996年に著されたスタン・ゲッツの評伝『スタン・ゲッツ 音楽を生きる』(ドナルド・L・マギン著、村上春樹訳、新潮社2019年刊)にはこうあります。

「ある日、リハーサルをしているとき、スタンはジルベルトの妻のアストラッドに——ブラジル人たちの中で英語を話せるのは彼女だけだった——英語で歌詞を歌ってみてくれないかと頼んだ。スタンはその場で、彼女の無防備なまでの官能性に強く打たれ、アルバムのために歌ってくれるよう要請した」(スタンの回想として)「ジルベルトとジョビンは、アストラッドを加えることに反対だった。アストラッドはプロの歌手ではない。ただの主婦だ。(後略)」

さらにもうひとつの興味深い資料があります。それはNHKで2000年に放映されたドキュメンタリー『世紀を刻んだ歌 イパネマの娘 青春のメロディーの栄光と挫折』。ここではジョアン・ジルベルトとジョビンのバイオグラフィーの紹介のほか、「イパネマの娘」のレコーディングについて、なんと、参加したベーシスト、セバスチャン・ネト、そして当時のプロデューサーのクリード・テイラーが出演してインタヴューに答えています。また、インタヴューの前にはマスター・テープの状態も紹介されています。要旨を抜粋すると……

レコード会社プロデューサー「全部で3トラックで録音されており、アストラッドのヴォーカルだけ独立したトラックで録音されている。」

ナレーション「これはアストラッドに歌わせる実験だった。」

クリード「アメリカで発売するレコードなので、英語の歌が必要だと思っていた。」

セバスチャン「録音2日目にアストラッドが、歌わせろとしつこくせがんだ。ジョアンは反対したがアストラッドに負けて、うまくいかなければ後でカットすればいいからと、歌わせるようクリードに頼んだ。」

ナレーション「しかし、通訳でもあったジョビンは、クリードにはカットについては伝えなかった」

クリード「ジョビンは英語の歌が必要なことがわかっていたから提案したのだ。だから英語の歌を入れたいということは私が言うまでもなかった。カットすればいいなどという会話は記憶にない。アストラッドの出だしを聴いただけで、これはイケると感じた」

という内容ですが、独立したヴォーカル・トラックについては、別のものに差し替えのためではなく、主役の「最高のテイク」録音のためと考えるのが普通でしょう。またジョビン、ジョアンらにとってはアメリカ・デビューとなる録音ですから、わざわざめんどうな「実験」などするはずもありませんので、これも「作られた」ストーリーに感じられます。

というわけで、前回紹介の資料も含めて、掘れば掘るほど異なる「事実」が出てきます。「イパネマの娘」のアストラッドの英語歌唱は、アストラッドのゴリ押しなのか、ゲッツの提案なのか、ジョアンなのか、ジョビンなのか、クリードなのか? 真実はますます謎に包まれるばかり。ひとつだけいえるのは、「素人」ではなく、「偶然」でもないこと。この「イパネマの娘」にまつわる「伝説」は、もう解明されることのない「伝説」としてそっとしておくしかなさそうです。

文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中。(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(シンコーミュージック・エンタテイメント)、『後藤雅洋監修/ゼロから分かる!ジャズ入門』(世界文化社)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。

 

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