はじめに-織田信雄とはどんな人物だったのか?
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する織田信雄(おだ・のぶかつ、演:山脇辰哉)は、織田信長(演:小栗旬)の次男として生まれた武将です。北畠家の養子となって南伊勢を治め、本能寺の変後には尾張(現在の愛知県西半部)・伊賀(現在の三重県北西部)・南伊勢を合わせて、およそ100万石を領するまでになりました。
しかし、その生涯は決して順風満帆ではありませんでした。無断で伊賀へ出兵して父・信長から厳しく叱責され、羽柴秀吉(演:池松壮亮)と対立して小牧・長久手の戦いを引き起こし、さらに転封命令を拒んで所領を没収されました。そのため、失敗の多い人物という印象を持たれることもあるでしょう。
一方で、信雄は織田・豊臣・徳川と権力者が移り変わる時代を73歳まで生き抜き、織田家の名をつなぎました。
この記事では、織田信雄が生きた時代と、その波瀾に満ちた生涯を辿ります。

織田信雄が生きた時代
織田信雄が生きたのは、父・信長が天下統一へ向かい、その死後、羽柴秀吉と徳川家康が新たな秩序を築いていった時代です。
戦国大名にとって、子を有力な家の養子に送り込むことは、領国を広げる重要な手段でした。信雄も幼くして伊勢(現在の三重県東部)国司の北畠家へ入り、信長による南伊勢支配の一翼を担います。
ところが、天正10年(1582)の本能寺の変で信長と嫡男・信忠が亡くなると、織田家の後継をめぐる争いが起こりました。信雄も後継者の座を望みましたが、やがて秀吉に主導権を奪われます。
その後、秀吉と戦って服属し、改易を経験しながらも、晩年には家康から所領が与えられました。信雄の人生は、信長の子であることが大きな力となる一方、ときに重い足かせにもなった生涯だったといえるでしょう。
織田信雄の足跡と主な出来事
織田信雄は、永禄元年(1558)に生まれ、寛永7年(1630)に没しました。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
信長の次男として清洲城に生まれる
織田信雄は、永禄元年(1558)、尾張の清洲城に生まれました。父は織田信長、母は生駒氏です。
幼名は茶筅丸(ちゃせんまる)、のちに三介(さんすけ)と称しました。
信雄は次男であり、嫡男には兄の信忠がいました。そのため、信雄には織田家を直接継ぐのではなく、別の家へ入って信長の勢力拡大に貢献する役割が与えられます。

北畠家の養子となり、南伊勢へ
永禄12年(1569)、信長は南伊勢の名門・北畠具教(きたばたけ・とものり)、具房(ともふさ)父子を攻めました。その講和条件の一つとして、茶筅丸は具房の養子となり、大河内(おおこうち)城を譲られます。
元服後は北畠具豊(きたばたけ・ともとよ)と名乗り、その後、信意(のぶおき)、信雄と改名しました。天正3年(1575)には具房に代わって伊勢国司となり、「御本所」と称されます。
信雄は名門北畠家を継ぐことで、信長による南伊勢支配を支える存在となりました。養子縁組そのものが、織田家の領国拡大を進める政治的な意味を持っていたのです。
信長の戦いに従軍する
信雄は、天正2年(1574)の伊勢長島一向一揆攻めをはじめ、雑賀衆(さいかしゅう)の討伐、播磨(現在の兵庫県南部)への出兵、荒木村重(あらき・むらしげ)の反乱鎮圧などに参加しました。
天正2年には従五位下侍従に叙任され、のちには左近衛権中将にも任じられています。
信長の子として高い官位を与えられ、各地の戦いに参加していた信雄ですが、その一方で、父を激怒させる大きな失敗も経験しました。
無断の伊賀攻めに失敗し、父から叱責される
天正7年(1579)、信雄は石山本願寺との戦いが続く中、勝手に伊賀へ出陣したため、信長から厳しい折檻状を突きつけられます。
信長にとって、軍事行動は政権全体の戦略に関わるものでした。たとえ実子であっても、無断出兵は見過ごせなかったのでしょう。
その後、天正9年(1581)に信長が大規模な伊賀攻めを行うと、信雄も改めて出陣しました。この戦いで伊賀は織田方に平定され、信雄は伊賀三郡を与えられます。
最初の失敗だけが注目されがちですが、信雄はその後の正式な遠征に参加し、伊賀支配を担う立場となったのです。
本能寺の変と清洲会議
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で父・信長と兄・信忠が明智光秀によって討たれました。

変の直後、近江日野城の蒲生賢秀(がもう・かたひで)は、光秀の来襲に備えて信雄へ救援を求めます。信雄は近江(現在の滋賀県)の土山まで兵を進めましたが、光秀が山崎の戦いで敗死したとの報を受け、伊勢へ引き返しました。
その後の清洲会議では、信雄も織田家の継嗣の地位を望みました。しかし、後継者に選ばれたのは信忠の遺児・三法師(さんぼうし、のちの織田秀信)でした。
信雄は三法師の後見役となり、清洲城と尾張国を与えられます。それまでの伊賀・南伊勢五郡と合わせると、所領はおよそ100万石に達しました。後継者にはなれなかったものの、信長の次男として大きな勢力を持ったのです。
弟・信孝を自刃へ追い込む
清洲会議後、織田家中では信雄と弟の織田信孝(おだ・のぶたか)の対立が深まりました。信孝が柴田勝家らと結んで秀吉に対抗すると、信雄は秀吉側に立ちます。

天正11年(1583)、信雄は信孝の籠もる岐阜城を攻めました。信孝は降伏し、尾張国野間で自刃します。
父と兄を失った翌年、今度は兄弟同士が敵味方に分かれて争うことになりました。信長亡き後の織田家が、急速に分裂していったことを象徴する出来事です。
しかし、信孝を排除したことで秀吉と信雄の関係が安定したわけではありません。ほどなく、両者は正面から対立することになります。
家康と結び、小牧・長久手で秀吉と戦う
信雄は、次第に織田家中で影響力を強める秀吉への警戒を強めます。天正12年(1584)、信雄は秀吉との関係を断ち、徳川家康と連合しました。
こうして始まったのが、小牧・長久手の戦いです。信雄と家康は尾張を中心に秀吉軍と対峙し、長久手では徳川方が秀吉方の部隊を破りました。しかし戦いは長期化し、信雄の領国内では各地の城が秀吉方の攻撃を受けます。
同年11月、信雄は家康に先立って秀吉と単独で講和しました。伊賀や南伊勢の領地を譲ることで、秀吉に服属したのです。
秀吉が戦う名目は、信雄を支援する家康を討つことにありました。その信雄が講和したことで、家康も戦いを続ける理由を失います。信雄の単独講和は、小牧・長久手の戦いを終結へ向かわせる大きな転機となりました。

秀吉に服属し、天下統一戦へ参加する
秀吉に服属した信雄は、翌天正13年(1585)の越中征伐で先鋒を務めました。同年には従三位権中納言、天正15年(1587)には正二位内大臣へ進みます。
天正18年(1590)の小田原征伐では、1万5000の兵を率いて出陣し、北条方の韮山城攻略などに加わりました。
かつて秀吉と戦った信雄でしたが、講和後は豊臣政権下の有力大名として軍事行動に参加しています。秀吉との関係は、協力と敵対、服属が複雑に入り交じるものでした。
転封命令を拒み、すべての領地を失う
小田原征伐の後、秀吉は徳川家康を関東へ移し、その旧領である駿河(現在の静岡県東部および中部) ・遠江 (現在の静岡県西部)方面へ信雄を転封しようとしました。
しかし信雄は、父以来の尾張・伊勢の領地に残ることを望み、転封命令を拒みます。これが秀吉の怒りを買い、信雄は所領をすべて没収され、下野国(現在の栃木県)烏山へ配流されました。
およそ100万石を領した信長の次男が、一度の拒絶によって所領を失ったのです。秀吉政権の命令が、たとえ信長の子であっても逆らえないほど強いものになっていたことを示しています。
信雄は入道して常真と号し、翌年には出羽国(現在の山形県と鹿角市・小坂町を除く秋田県全域)秋田へ移されました。
家康の仲介で赦され、秀吉の相伴衆となる
その後、徳川家康の斡旋によって信雄は赦免されました。文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵に際して肥前(現在の佐賀県及び壱岐・対馬を除く長崎県)名護屋へ召し出され、相伴衆(しょうばんしゅう)に加えられます。
相伴衆とは、儀礼や会食の場で秀吉に近侍する立場です。信雄は大名として領国を支配する地位を失いましたが、信長の子として一定の待遇を受けることになりました。
嫡男の秀雄には越前(現在の福井県北部)大野5万石が与えられ、信雄自身は肥前名護屋から引き揚げた後、大坂天満の屋敷に暮らしたとされます。
ただし、秀吉に対して複雑な思いを抱いていたらしく、その後も家康へ心を寄せ続けました。

関ヶ原と大坂の陣では家康に通じる
慶長5年(1600)、石田三成が家康討伐の兵を挙げようとすると、信雄は畿内の情勢を、下野国小山にいた家康へ知らせました。

関ヶ原の戦いで軍勢を率いて大きな戦功を挙げたわけではありませんが、情報提供をすることで家康方に協力したのです。
さらに慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、豊臣秀頼から味方になるよう招かれましたが、これを断りました。信雄はひそかに家康へ通じ、大坂を離れて京都へ移ります。
かつては秀吉の相伴衆として豊臣家に仕えながら、その滅亡が迫ると家康方を選びました。こうした判断には、豊臣政権下で改易された経験も影響していたのかもしれません。
大坂の陣後に5万石を与えられる
豊臣家が滅んだ後の元和元年(1615)7月、信雄は家康から大和国宇陀郡で3万石、上野国(現在の群馬県)の甘楽・多胡・碓氷の三郡内で2万石、合わせて5万石を与えられました。
かつての約100万石には遠く及びませんが、改めて大名としての所領を得たことになります。信雄の子孫は、出羽天童(てんどう)藩と丹波(現在の京都府の中部と兵庫県の東部) 柏原(かいばら)藩の藩主家として、明治時代まで存続しました。
信雄は政争や改易を繰り返しながらも、最終的には織田家の家名を後世へ残すことに成功したのです。
茶や和歌を楽しんだ晩年
信雄は、茶道や和歌、歌舞に親しんだ風流人でもありました。茶の湯は、信長の弟である叔父・織田有楽斎(おだ・うらくさい)に学び、配流後は茶を楽しみながら暮らしたとされます。
京都の西洞院三条(にしのとういんさんじょう)付近には、かつて信雄の広大な屋敷がありました。その邸内にあった「柳の水」は、千利休も茶の湯に用いたと伝えられています。


また、宣教師の記録には、信雄が天正15年(1587)ごろ、京都でキリシタンになったとの記述もあります。ただし、洗礼名などはわかっていません。
寛永7年(1630)4月30日、信雄は京都で没しました。73歳でした。墓は京都の大徳寺総見院にあり、法名は徳源院実巌常真です。
まとめ
父や兄弟の多くが志半ばで命を落とした中、織田信雄は73歳まで生き、織田家の血筋を次代へとつなぎました。失敗を重ねながらも、そのたびに立場を変え、乱世を生き延びたことこそ、織田信雄という人物の見逃せない一面なのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
イラスト/ぐう(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)
『新カトリック大事典』(研究社)











