大河ドラマや時代劇を観ていると、現代ではあまり使われない言葉が多く出てきます。なんとなくの理解でも番組を楽しむことはできますが、セリフの中に出てくる歴史用語を理解していたら、より楽しく観ていただけるのではないでしょうか。

【戦国ことば解説】では、戦国時代に使われていた言葉を解説いたします。言葉を紐解けば、戦国時代の場面描写がより具体的に思い浮かべていただけることと思います。より楽しくご覧いただくための⼀助としていただけたら幸いです。

さて、今回は「側室」という言葉をご紹介します。「側室」と聞くとどのようなイメージがあるでしょうか? まずは「側室」についてご説明いたしましょう。

⽬次
「側室」とは?
徳川家康の正室と側室
戦国時代の女性の役割を表す呼称
最後に

「側室」とは?

「側室」とは、将軍や大名のような地位の高い人の妾のことを言います。儒教が重視されていた江戸時代は特に、祖先に対する崇拝が大切であると考えられていました。そのため、祖先の祭祀を絶やすことのないように、側室は多く公認されていたのです。

将軍や大名の跡継ぎには、正室が産んだ子どもが優先されますが、何らかの理由で継ぐことができなくなったり、跡継ぎの男の子に恵まれなかったりした場合には、側室の子どもが跡を継いでいました。家康の側室の一人である西郷局(さいごうのつぼね)の子で、江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠などがその一例です。

将軍の側室の場合は、男の子を産めば「御部屋(おへや)様」、女の子を産めば「御腹(おはら)様」と呼ばれました。将軍の子どもを産んだ側室はまず「御腹様」と呼ばれ、子どもが男の子の場合は大奥に部屋を与えられたため、このような呼び方がされていたという説もあります。

『千代田之大奥歌合』(橋本周延画)

また、基本的に名前に「方」がつけられることが多く、家来からは主人同然の扱いを受けていたとされています。将軍や大名の子どもを産むことを強く要望されていた側室ですが、30歳になると「御褥御断り(おしとねおことわり)」と言い、主人と寝所をともにすることを避けたそうです。

「正室」との違い

では、「正室」と「側室」とでは、何が違うのでしょうか? まず、「正室」とは身分の高い人の正妻のことです。子孫を繁栄させ、家系を守ることが重視されていたため、側室は何人も採用されることが珍しくありませんでしたが、正室に関しては一人だけでした。

そして、同じ妻でも正室と側室とでは身分に違いがありました。正室は将軍や大名の正式な妻であるため、側室よりも身分が高く、両者は主従関係にあったのです。

徳川家康の正室と側室

家康には、正室である築山殿(つきやまどの)のほかに、多数の側室がいたとされ、その数は15人以上であると考えられています。後の将軍である秀忠を出産した西郷局や、紀州徳川家の始祖となる頼宣(よりのぶ)や水戸徳川家の始祖となる頼房(よりふさ)を出産したお万の方などが、代表的な側室として挙げられるでしょう。

また、家康の側室の中には類まれな統率力を持つ者も存在しました。それが、阿茶の局です。家康との間に子どもは授からなかったものの、西郷局の死後に彼女の子である秀忠や忠吉を母代わりとなって育てました。彼女は大変聡明であったとされ、大奥の統率だけでなく、政治面においても力を発揮したそうです。

側室の中でもかなり強い権力を持っていた阿茶の局は、家康の死後も出家することなく、特別扱いを受けることとなりました。このように、側室に求められたのは、子どもを産み育てることにとどまらなかったということが分かります。

戦国時代の女性の役割を表す呼称

ここでは、戦国時代の女性の役割を表す呼称について紹介します。

女城主

「女城主」とは、城主を務める男性が存在しない時に、代わりとなってその役割を務めた女性のことを言います。代表的な女城主として、「関ヶ原の戦い」にて大いに活躍し、家康からも一目置かれることとなった戦国武将・立花宗茂(むねしげ)の妻が挙げられるでしょう。

立花宗茂が描かれた錦絵(歌川芳虎画)

「関ヶ原の戦い」で留守になっていた宗茂の居城である柳川城を狙って、敵が攻め入った際、妻は籠城兵を指揮して城を守り抜いたとされます。宗茂の妻は名将として知られた立花道雪の娘であり、戦いの指揮を執ることも不自然ではなかったそうです。

また、夫の急死や嫡男が幼いことなどが理由で女城主になったという例も見られます。鎌倉時代は比較的女性の地位が高く、女性にも相続権が認められていましたが、力がものを言う戦国時代になると否定されるようになったため、女城主のように、女性が相続を代行するということは例外として考えられるようになりました。

比丘尼(びくに)

「比丘尼」とは、巫女の役割を担った尼僧のことを言います。熊野信仰を布教するために各地を巡り歩き、「口寄せ」と呼ばれる、死者の霊を呼び寄せる儀式を行ったり、祈禱や占いをしたりしてお布施をもらい、生活していました。

高野聖と同じく熊野詣の先導役を担うこともあり、歌謡や舞いなどの芸能を得意とした者の中には、売春行為を行う者もいたと考えられています。

乳母(めのと)

「乳母」は「うば」とも読み、血縁関係のない子どもを育てた女性のことを指します。公家や武家などの上流階級では、妻が出産すると、乳母が母代わりとして授乳や育児を行うことが通例でした。家臣団の女性の中から出産していて母乳の出が良く、かつ忠誠心の強い者が乳母に選ばれることが多かったとされています。

武家社会においては、第二子は産みの母親が自分で育てるという例も見られ、長男より次男を可愛がるということもあったそうです。また、乳母の実子は「乳母子(めのとご)」と呼ばれ、大名や将軍の子とともに育ったことから、実の兄弟のような関係にありました。

織田家の重臣で、信長とは乳兄弟にあたる戦国武将の池田恒興(つねおき)は、その関係性から家臣団の中でも一族に等しい厚遇を受けていたとされます。

池田恒興像(林原美術館蔵)

最後に

今回の戦国ことば解説は、「側室」について解説しました。大河ドラマや時代劇でしばしば耳にする「側室」。大名や将軍の子どもを出産することで家系を支えていただけでなく、政治面でも重要な役割を果たす側室もいたということについて、ご理解いただけたのではないでしょうか。

より詳しく知ることで、歴史を楽しく学ぶことができるのではないかと思います。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)

 

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