はじめに-久松長家とはどんな人物だったのか
久松長家(ひさまつ・ながいえ)は、徳川家康の継父として活躍しました。家康の母・於大の方(おだいのかた)の再婚相手であったというエピソードは有名です。
そんな長家ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、織田家や水野家など、その時々で手を組む相手を変え、情勢を見極めながら乱世を生き抜く人物(演:リリー・フランキー)として描かれます。
目次
はじめに-久松長家とはどんな人物だったのか
久松長家が生きた時代
久松長家の足跡と主な出来事
まとめ
久松長家が生きた時代
久松長家が生きた頃、本拠地である尾張の知多やその周辺では、松平氏・織田氏・今川氏などの大名が勢力争いを続けていました。信義関係というのが成り立たない時代、誰に味方するのがもっとも合理的なのか、情勢を慎重に見極めなければならない状況だったのです。まさに命懸けでした。
久松長家の足跡と主な出来事
長家は大永6年(1526)に生まれ、天正15年(1587)に没しました。その生涯を出来事とともに見ていきましょう。
家康の母・於大の方と再婚する
長家は尾張の知多郡にある阿久比城主でした。久松氏は尾張の守護である斯波家に仕えていたものの、長家の時代には斯波家は没落していたようです。
長家は織田方として見られていますが、松平広忠とつながっていた可能性も指摘されています。織田方・松平氏とも提携していたのかもしれません。
天文16年(1547)に、長家は松平家から離縁された於大の方と再婚。於大の方との間に、三男三女をもうけました。
家康に臣従する
永禄3年(1560)の桶狭間の戦い以降、久松氏は家康に臣従するようになります。家康が今川氏から独立し、織田氏と同盟を結ぶと、水野氏や久松氏との関係が改善され、久松氏は家康に従うことになったのです。
長家には於大の方との間にできた3人の息子がいました。家康から見れば、異父弟になります。家康はこの3人に松平苗字を与え、一門にしたのです。他に兄弟がいなかった家康にとっては、貴重な血縁者でした。久松氏から見れば、一族の人間がやがて天下人になる人物の一門になったということは、重要な転換点であったと言えるでしょう。
その後、長家は家康が今川方と戦って攻略した上ノ郷(かみのごう)城の城主を任せられましたが、その座を次男・松平康元(やすもと)に譲りました。一方、本拠地である阿久比城は長男・久松信俊(のぶとし)に任せ、自身は岡崎城で於大の方とともに家康の留守居を務めたのです。
その後も、長家は家康のために尽くし、天正15年(1587)に死去しました。墓所は今の蒲郡市にある安楽寺になります。
【家康の伯父である水野信元の殺害に加担してしまう。次ページに続きます】