はじめに-石川数正とはどんな人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する、「家康(演:松下洸平)の最側近」として、幼少期の人質生活から戦場、外交までを共にした人物がいます。石川数正(いしかわ・かずまさ、演:迫田孝也)です。

織田信長(演:小栗旬)との同盟を結ぶ下準備を整え、駿府に残された嫡子・信康(のぶやす)たちの奪還にも関わった一方、天正13年(1585)には突然、岡崎城を出奔して豊臣秀吉(演:池松壮亮)に臣従します。理由ははっきりしません。

だからこそ、数正の歩みは「徳川が天下を取るまでの舞台裏」のように見えるのかもしれません。

『豊臣兄弟!』では、徳川家康の腹心ともいえる存在として描かれます。

石川数正
石川数正

石川数正が生きた時代

石川数正が活躍したのは、戦国の勢力図がめまぐるしく塗り替わる16世紀後半です。

今川の勢力下にあった松平(徳川)家が、桶狭間後に独立し、織田と手を結んで伸長していきます。本能寺の変後は、秀吉が台頭し、家康はその豊臣政権と向き合う立場へ…。

数正はこの転換点のほとんどに同席し、「徳川の中枢」から「豊臣の大名」へと立ち位置を変えた、稀有な存在でした。

石川数正の足跡と主な出来事

石川数正は三河国で生まれ(生年不詳)、文禄元年(1592)もしくは2年(1593)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

家康の重臣の子として生まれる

石川数正は、松平氏の家老を務めた家系に生まれました。父・康正(やすまさ)は、家康幼少時の重臣です。叔父には、同じく家康の重臣・石川家成(いえなり)がいます。

天文18年(1549)、松平竹千代(のちの徳川家康)は今川氏の人質となり、岡崎から駿府へ送られました。その際、数正は竹千代に随行。以来、常に彼の側近にあったとされ、家臣の筆頭格として挙げられます。

徳川家康
徳川家康

石ヶ瀬合戦の先陣、そして同盟への道筋

永禄3年(1560)における織田氏と今川氏の「桶狭間の戦い」では、主君である家康は今川方の先鋒として参戦しました。その翌年、永禄4年(1561)2月に起こった尾張の織田勢と今川勢である家康との戦い「石ヶ瀬(いしがせ)合戦」では、数正は先鋒を務めます。

そして、この戦いの直後から、数正は織田氏と松平氏との同盟の斡旋に努めたとされます。その後の、清洲同盟(信長と家康の軍事同盟)の基礎を築いたのでした。

翌年2月には、数正は、駿府の今川氏に捕らえられていた家康の嫡子・信康(のぶやす)と正室・築山殿(つきやまどの)を救出する際、交渉役を務め奪還に成功しています。

家康の老臣として活動

永禄12年(1569)、叔父・家成に代わって、西三河(現在の愛知県の中部)の武士団の長である「旗頭(はたがしら)」となりました。合戦でも活躍し、姉川の戦いや三方ヶ原の戦いでは武功を挙げています。

天正7年(1579)には、家康の嫡男・信康が武田内通の嫌疑をかけられ、切腹。その後、岡崎城代を任されます。

史跡 姉川古戦場

本能寺の変と「伊賀越え」も同行

天正10年(1582)に「本能寺の変」が起こった直後、家康は堺にいました。彼は治安が乱れた近畿地方を横断し、伊賀路(現在の三重県)を通って、領地の三河(現在の愛知県)に逃げ帰ったとされます。通称「伊賀越え」と呼ばれるこの逃避行においても、数正は家康に同行していました。

秀吉と家康の戦い「小牧・長久手の戦い」

信長の死を受け、中央の政界では羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勢力が伸びていきます。同時に、信長の遺子・信雄(のぶかつ)との対立関係は激化しました。信雄を援助した家康は、天正12年(1584)に尾張に出兵。「小牧・長久手の戦い」と総称されるこの戦いで、数正は本陣である小牧山を守り、ついで前田城を攻略して戦功を立てます。

長久手の戦いで家康方に敗北を喫した秀吉は撤退し、その後、戦線は膠着状態が続きました。最終的には秀吉と信雄との間で、講和が成立。この際、秀吉や信雄、家康との調整に奔走したのも、数正であったとも伝わっています。こうして秀吉・家康の対戦は、幕を閉じました。

史跡 長久手古戦場

また、同年12月、家康の次男・於義丸(おぎまる、のちの結城秀康)が養子として秀吉の許に赴きました。その際、数正は自身の嫡子・康長(やすなが)、第二子・康勝(やすかつ)を大坂に従わせます。

突然の出奔|家康から去り、秀吉のもとへ

このように高い忠誠心を持った数正でしたが、翌天正13年(1585)11月、突如として城代を務めていた岡崎城を出奔。秀吉のもとへと走り、臣従したのでした。

数正が家康から離れた理由としては「秀吉の説得に応じたから」や「秀吉との融和を求める数少ない和睦派で、家中で孤立したから」、「徳川家のため自ら敵に潜り込んだ」など、諸説あります。他にも、水野信元の誅殺に関与したことで、信元の妹で家康の母である於大(おだい)の方の恨みを買ったともいわれていますが、真意は今も不明なままです。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

秀吉の大名として松本へ

こうして数正は、秀吉により和泉国(現在の大阪府)の地を与えられ、家臣として仕えます。天正18年(1590)には、秀吉が小田原(現在の神奈川県小田原市)を本城とする北条氏政(うじまさ)・氏直(うじなお)父子を攻撃し滅亡させます(小田原征伐)。この戦いに従軍した数正は、その功により、信濃国松本城主8万石(10万石の説もあり)に封ぜられました。

この松本城は、古くは「深志(ふかし)城」と呼ばれていました。現在の松本城は、数正とその子・康長が天正19年(1591)~慶長年間(1596~1615)半ばに築いたものとされます。

文禄元年(1592)3月、肥前・名護屋に出陣。その後、没しました。没年については諸説ありますが、文禄元年(1592)、もしくは2年(1593)といわれています。

まとめ

家康、そして秀吉という2人の天下人に仕えた石川数正。彼が家康のもとを去った真意は、400年以上経った今も明らかになっていません。しかし、日本の歴史に名を刻む2人から高く評価されたことは、史実からうかがい知ることができます。

だからこそ、鋭い知性を持った数正が抱えたであろう葛藤に想像が膨らむばかりです。こうした視点で振り返ると、一層戦国史を重層的に捉えられるのではないでしょうか。

※表記の年代と出来事には、諸説あります

文/菅原喜子(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

 

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