ようこそ、“好芸家”の世界へ。

「古典芸能は格式が高くてむずかしそう……」そんな思いを持った方が多いのではないだろうか。それは古典芸能そのものが持つ独特の魅力が、みなさんに伝わりきっていないからである。この連載は、明日誰かに思わず話したくなるような、古典芸能の力・技・術(すべ)などの「魅力」や「見かた」にみなさんをめぐり合わせる、そんな使命をもって綴っていこうと思う。

さあ、あなたも好事家ならぬ“好芸家”の世界への一歩を踏み出そう。

第10回目は日本舞踊の世界。京都や大阪で代々受け継がれ、発展してきた「座敷舞」。動きが少ないからこその魅力をご紹介しよう。

文/ムトウ・タロー

山村流家元・三代目山村友五郎の「地唄 古道成寺」。道成寺の鐘を焼き尽くしてしまうほどの女の激しい情念を一人で表現する。男性が女性の振付で舞う、上方の舞の特徴も現れた作品。
写真提供:国立劇場

「舞踊」は2つの表現を合わせた造語

今日、私たちが当たり前のように馴染んでいる「舞踊」という言葉、実は明治に入ってから生まれた、比較的新しい用語である。

日本の近代演劇を牽引した坪内逍遥(1859~1935)の著作『新楽劇論』の中で、突如「舞踊」という言葉が現れた。この著書は明治37(1904)年の発刊、つまり「舞踊」はまだ生まれてから120年ほどなのである。

日本のそれまでの身体表現の特性として認識されていた「舞(まい)」と「踊(おどり)」を合わせたもの。つまり「舞」と「踊」は、それぞれに特徴を持ったものだった。

二世 藤間勘右衛門(1840~1925)が「踊」と「舞」の違いについて「舞は型で締めてゆくもので御座いますから、上げて見せる足の、指先まで全身に、力を入れますので、前が下り気味になります。踊りでは、立つ足に力を持して、片足を上げますから、指先を上げて見せるなぞ、異なった点が御座います」と述べている。(「踊りの順逆」『演芸画報』大正十年二月号)

勘右衛門のことばにもあるように、「舞」は「締めてゆく」、つまり何かしらの制約を受けているような動きに聞こえる。それは、「舞」が制約された空間で披露されるものであったからに他ならない。その象徴的なものが、「座敷舞」である。

同じく山村友五郎「地唄 古道成寺」。東京の国立劇場で毎年秋に開催される「舞の会」。舞台では襖や金屏風などを背景にして、舞台には蝋燭(ろうそく)が置かれているなど、お座敷の雰囲気をイメージしたものになっている。
写真提供:国立劇場

制約された空間での表現

「座敷舞」はその名の通り、舞う場所が座敷であることがその名の由来となっている。お茶屋などの座敷という畳が敷き詰められた限られた空間で披露されるものがベースとなっているため、抑制的な動きになる。「踊」で見られるような躍動的な動きはない。

この抑制的な動きは、「座敷舞」が生まれた環境によるものなのだ。その名の通り、「座敷舞」は劇場のように不特定多数を相手にするのではなく、座敷を訪れた客=特定の少数を相手に披露するものである。加えて座敷の客は劇場で見るよりもより近くで、そして平面的な視線で見るため、静的であってもよりダイレクトに舞の内面の表現が伝わる。舞い手にはその意識が備わっていなければならない。そこに生まれてくるのが「あなたのために舞っている。自分のために舞ってくれている」という舞い手と客のお互いの親近感である。

参照:権藤芳一「京阪の座敷舞について」(国立劇場第六回舞踊鑑賞教室(昭和56年7月17日)プログラム

大きな舞台と違い、限られた空間で披露することを宿命づけられた座敷舞は、それに見合った表現を生み出すことを重視するようになる。

楳茂都流四世家元・三代目楳茂都扇性(うめもとせんしょう)による『屋島(やしま)』。歌舞伎俳優・六代目片岡愛之助が平成20(2008)年12月に三代目を継承し、舞踊家として舞台に立つ。
写真提供:国立劇場

大阪の舞は源流が様々

「座敷舞」は、発展した地域、そしてその地域で親しまれた音楽から「上方舞」あるいは「地唄舞」とも呼ばれている。

長きにわたり上方地域、そして座敷という限られた空間でしか見ることのできなかった「座敷舞」は、時代が進むにつれて、座敷の外へもその姿を見せるようになった。

国立劇場の開場後は、毎年のように晩秋の東京で「座敷舞」の公演が行われている。地域性やベースとなったものによる様々な流派の多彩な「座敷舞」を見ることができるものだ。

大阪に起源をもち、最も長い歴史を持つ山村流は、開祖が歌舞伎俳優の振付師であったことから、歌舞伎舞踊を基礎としており、大阪の花柳界や商家に多くの弟子を持つことで発展した。

同じく大阪を拠点としている楳茂都(うめもと)流は、雅楽や今様などの宮廷文化を基礎にしており、京阪の花柳界に多くの門弟を持っていた。常に創意工夫を繰り返しており、能楽・歌舞伎・舞踊を合わせた「てには狂言」、大正期の「新舞踊運動」にも積極的に関わっている。

一方、吉村流は、こちらも大阪が拠点だが、幕末に京都の御所に出仕した狂言師が始めた御殿舞(琴、三味線に振りを付け、城中で舞う舞踊)を源流としている。いわば京都生まれの大阪の舞である。

吉村流現家元・吉村輝章(よしむらきしょう)による『桶取(おけどり)』。吉村流で特に重宝されている舞。女性の嫉妬を派手に見せずに表現していく難しさを併せ持つ。
写真提供:国立劇場

京都の舞は花街が発展させた

これに対して、同じく京都で生まれた井上流は、現在「京舞」とも呼ばれており、京都に根を張って今日に至っている。

井上流は大阪の三派と決定的に異なり、女性の舞手しかいない。

四世家元・四代目井上八千代による『井上八千代芸話』では、「井上流は女舞です。女の体に直線的な表現、強い表現を求めるのは無理なように思えます。(中略)つまり、女の体には、男の人にはない自然な柔らかさがあります。その柔らかな線のうちで出来うる限りの強さをもとめているのです」と、京舞の神髄が語られている。

「京舞」を発展させたのは、京都の花街、つまり芸妓や舞妓の存在である。彼女たちは日々芸を磨き、お客に認められなければならない。

京舞の代表的な踊り手であった松本佐多(1873~1955)が「動かんやうにして舞ふ。つまり、表現(あらわしかた)を内省(うちうち)にして、出来るだけ描写(ふりとて)を要約(つづめるように)するのどす」と、自らの芸談でこのように述べているように、京舞は限りなく最小限の動きの中で舞い手の心情を表現することを要求される。その心情の多くは恋慕や愚痴などの身近な喜怒哀楽を持った女性の心情である。

京舞井上流現家元である五代目井上八千代による『地歌 嵯峨の雨(さがのあめ)』。雨に濡れる嵐山の情景と、懐かしい思い出に一人涙する松尾芭蕉の思いを舞で描く。歌人・吉井勇が井上流のために創作した舞。

「舞」の精神が特別な空間を創る

たとえ披露する場所が変わろうとも、座敷という空間で培われた「あなたのために舞っている。自分のために舞ってくれている」という親近感を備えた舞の精神は変わらない。

その精神がある限り、どの場所で披露されようとも、私たちは「座敷」という特別な空間を味わうことができる。見ている側を特別な空間に誘ってくれる力を、「座敷舞」は持っている。

※本記事では、存命の人物は「〇代目」、亡くなっている人物は「〇世」と書く慣習に従っています。

 

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