はじめに-牧氏の変とはどんな政変だったのか
「牧氏の変」は、鎌倉幕府初代執権である北条時政の後妻・牧の方が、将軍を殺害し新たな将軍を立てようとして失敗した事件です。「畠山重忠の乱」の直後、鎌倉時代初期の元久2年(1205)7月に起こりました。では「牧氏の変」は、具体的にはどのようにして起こったのでしょうか。
目次
はじめに-牧氏の変とはどんな政変だったのか
牧氏の変はなぜ起こったのか?
関わった人物たち
この政変の内容と結果
牧氏の変、その後
まとめ
牧氏の変はなぜ起こったのか?
先述した通り「牧氏の変」は、鎌倉時代初代執権を務める北条時政の後妻「牧の方(まきのかた)」が起こした事件です。牧の方は、長年、平頼盛(よりもり)に仕えて駿河国大岡牧(おおおかまき)(=現在の静岡県沼津市周辺)を預けられた牧宗親(むねちか)の娘か妹とされます。実家の名字から「牧氏」「牧の方」と呼ばれます。北条時政の後妻として迎えられ、まだ若かったこともあり寵愛を受けた人物でした。
「牧氏の変」の前にも、彼女をきっかけに起こった事件がありました。
寿永元年(1182)11月、義娘である北条政子が、源頼朝の寵女・亀の前(かめのまえ)の存在を知った「亀の前事件」です。この際、政子に浮気相手の密告をしたのが、牧の方でした。源頼朝が亀の前を寵愛していた時期は、北条政子が妊娠・出産をしていた時期でもありました。この話を聞いた北条政子は激怒、牧の方の父(または兄)である牧宗親に命じて、亀の前の家を破壊させます。この騒動は、牧の方の告げ口が引き起こしたものだったのです。
さらに、元久2年(1205)に起こった「畠山重忠の乱」にも、牧の方が深く関わっています。この事件は、京都守護・平賀朝雅(ともまさ)が酒宴中に畠山重忠の子・重保(しげやす)と争い、その後、畠山親子が討伐された出来事です。この際、牧の方は畠山親子に謀反の疑いがある、と夫・時政に讒言したとされます。そして彼らの討伐を強く押し、北条義時らがそれに従う形で畠山親子を襲ったのでした。
この乱を経て、邪魔者を始末した牧の方と時政夫婦は、翌月には「3代将軍・源実朝を滅ぼし、娘婿の平賀朝雅を将軍に担ぎ上げる」という新たな計画を構想しました。これが牧氏の変へと繋がっていきます。
関わった人物たち
牧氏の変に関わった、主な人物をご紹介しましょう。
北条時政夫婦
・牧の方
北条時政の後妻として迎えられ、寵愛を受けた。自分の娘婿を新将軍にする計画を企て、事件のきっかけを作った人物。
・北条時政
鎌倉幕府の初代執権。妻である牧の方とともに、新将軍擁立の陰謀を企てたことで、失脚する。
・平賀朝雅
執権・北条時政の後妻である牧の方の、娘婿となった武将。義母である牧の方によって、新将軍に擁立されたことで、誅された。
北条政子・義時
・北条政子
時政の子であり、源頼朝の正室。息子である将軍・実朝を保護し、父親夫婦の計画を阻止した。
・北条義時
時政の子であり、鎌倉時代前期の第二代執権。父親夫婦の計画を阻止し、執権職を獲得した人物。
この政変の内容と結果
元久2年(1205)7月、牧の方は自身の娘婿である平賀朝雅を新将軍に据えようとします。この計画は時政も含めた夫婦によるものだとされますが、一説によると、時政はこの計画には後ろ向きだったともいわれています。
いずれにせよ、この強硬な策を知った北条政子と義時は、傍観していられませんでした。特に政子にとって、現将軍・実朝は頼朝との間にもうけた自身の子であるため、牧の方らの計画は阻止しなくてはなりません。そこで、結城朝光(ともみつ)や三浦義村(よしむら)、天野正景(まさかげ)といった御家人らを遣わし、時政邸から実朝を連れ出して、義時邸で保護しました。
一方、時政も兵を集めますが、既に彼に味方する者はなく、召し抱えていた勇士たちもことごとく義時邸にいる実朝の警護にあたったとされます。孤立した北条時政はこの日のうちに出家、翌日、伊豆国の北条郷(ほうじょうごう)へ隠退したのでした。時政の失脚にともない、執権職は子である義時が継ぐこととなりました。
また、三善康信(やすのぶ)や安達景盛(かげもり)らが義時邸に集まり、京都にいる平賀朝雅を討ち取る相談をし、兵が差し向けられました。平賀朝雅は討手が襲撃すると、しばらくは防戦をしましたが、防ぎきれずに松坂辺りへ逃亡。そこで射止められたとされます。
牧の方と時政らの企てた計画は、実行に移される前に北条政子や北条義時らによって阻止される形で、終わりを迎えたのでした。
牧氏の変、その後
時政は、その後二度と政界に返り咲くことはなく、建保3年(1215)、腫物のため死去しました。事件の原因を作った牧の方もまた、時政の出家に伴って伊豆国へ追放されています。しかし時政の没後に、平賀朝雅に嫁いだ娘が公家と再婚すると、娘夫婦を頼って京都へ移住。そこで裕福な余生を過ごしたといわれています。
藤原定家の『明月記』には、嘉禄3年(1227)、牧の方が時政の13回忌を盛大に行ったことが批判的に記されています。元執権の妻の影響力は、晩年においても小さくはなかったようです。
そしてこの事件は、時政・義時親子が対立し、執権職が子に移るきっかけとなりました。義時は、時政が就いていた政所別当だけでなく侍所別当(さむらいどころべっとう)も兼ねるようになり、執権としての地位を確固たるものにします。
その後に起こる、後鳥羽上皇との戦い「承久の乱」に勝利した義時は、天皇家を弱体化し、鎌倉幕府の支配を確かなものとしました。そして、鎌倉幕府の実権を北条氏が握る体制を整え、覇権を手に入れるに至ったのです。
まとめ
牧の方が夫・時政と共謀して新将軍として擁立し、幕政の実権を掌握しようと画策した「牧氏の変」。結果的に、初代執権・北条時政を失脚させる原因となりました。少し見方を変えれば、その跡を継いだ二代目執権・義時の活躍と鎌倉幕府の成長を生み出す、歴史の転換点とも捉えられるのではないでしょうか。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)