文・写真/千夏優里(海外書き人クラブ/オランダ在住ライター)
今回は首都キーウ(キエフ)から離れ、2019年に、中・南部ウクライナの主要都市を訪れたときの旅の想い出を紹介する。
(前回の『美しい街並みと親切な人々に思いを馳せる|占領の危機にあったウクライナのキーウ紀行』はこちら)
呪われた?ユダヤ教の聖地
中部の小都市ウマーニ(ユダヤ名ウマン)に偶然立ち寄った。街にはこれと言って面白いものはないが、一角にユダヤ人街があるという。
プーシキン(プーシキーナ)通り周辺が中心なのだが、行ってみて驚いた。辺りは閑散としていたが、ヘブライ文字だらけだ。たまに英語が目に入る程度でウクライナ語がない!
歴史を紐解くと、1768 年にウクライナ人蜂起軍によって約二万人ものユダヤ人が虐殺されたのがウマーニだ。19世紀以降はユダヤ人共同体ハシディズムの中心地になったらしい。シナゴーグ、祈祷場、ユダヤ人学校が次々と建設された。ハシディズムの指導者ナフマン・ブラツラフはウマーニで亡くなり埋葬地に巡礼者が絶えない。
1941年には、ヒットラーとムッソリーニが訪れたというのだから驚きだ。その後ドイツ軍により一万数千人のユダヤ人が殺害された悲劇へと続く。巡礼はソ連時代には禁止されたが、ソ連崩壊頃から再開されている。ユダヤ暦新年を中心に、巡礼者のための観光が街の経済を支え、なんと年間数万人が訪れるという。ただ、近年はイスラエルなどからの巡礼者による迷惑行為が続出し、住民との衝突も伝えられている。聖地とはいえ、なんとも呪われた地という印象を受けてしまう。
宗教にあまり縁のない私のような日本人にとっては、巡礼所は特殊な場所だ。部外者を寄せ付けない雰囲気も漂う。何も予習をしていなかったので、巡礼所に入って良いものか迷ったが、勇気を出して足を踏み入れた。
緊張しながら目についた人々に挨拶をすると、意外に暖かく迎えてくれた。ユダヤ教の巡礼所は初めてだったので、残念だが写真を撮るのは控えて、邪魔にならないように祈祷の様子を観察した。
部屋は学校の小さな教室くらいの大きさだ。壁際に棚が置かれ、経典らしき書籍が並ぶ。一冊手に取ってみたが、ヘブライ語がまるでわからない。長机と椅子がたくさん置いてあり、図書室のよう。壁の一角には装飾が施されており、ヤームルカというユダヤ教の小さな帽子を被った数人が集まっている。何か意味がある場所らしい(後日ナフマン・ブラツラフの墓だと知った)。
人々は熱心に言葉を発しながら祈祷している。ふと見ると、指導者のような人がいて、額にテフィリンという黒い小箱を付けた若者に何やら教えを説いていた。小箱は革製で、羊皮紙でできた聖書の句が入っているそうだ。
帰り間際に簡易レストランに入った。メニューも数字も読めないので、英語で大まかな意図だけ伝えて、店の主人の勧めに従った。サラダ、ディップソース、フライドポテト、ケバブのような料理が出てきた。
「美味しいですね。トルコのケバブみたい」と言ったら、
「我々の方が美味い」という返事。
なるほど誇りが高そうだ。渡されたレシートを見ると、値段が予想よりかなり高かった。ぼったくりかもしれないが、文句も言えないし、まあいいか。
ともかく、ユダヤ教に関して少し勉強する必要があると感じる貴重な滞在だった。おそらく大半の日本人にはユダヤ教は馴染みが薄いだろう。斯く言う私も、本稿を書くにあたって知ったことばかりだ。また、本を読むのと体験するのは全く違う。興味のある方はトライしてみることを薦める。
黒海の真珠オデーサ(オデッサ)
黒海の玄関口であるウクライナ第三の都市オデーサは、現在ロシア軍による攻撃に対する防衛準備が進行している。港町独特の雰囲気がある。キーウに比べ気候も温暖で、歴史ある街並みを見ながらの散歩は軽快な気分。トリビアとしては、オデーサ出身のユダヤ系ミハエル・コーガンが興味深い。満州から日本に渡り、エンターテイメント会社タイトーの創業者になったなんて、誰も知らなかったのでは?
平凡な階段だが
オデーサで一番有名な観光地といえばこの長い階段。映画「ローマの休日」で登場するのがスペイン階段なら、ここは映画「戦艦ポチョムキン」の舞台となった階段である。スペイン階段の優雅さはないが、下から見上げると、途中にある踊り場が見えなくなり、上から見下ろすと段が見えないようにデザインされている。不思議といえば不思議。映画自体はソ連のプロパガンダとして映画史に残る名作で、「ローマの休日」に負けていない。1925年製作のため著作権が失効しており、YouTubeなどで無料で観れる。
(パブリック・ドメイン
https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Odessastepsbaby.jpg)
ただ、現在の紛争をみていると、非常に複雑な気持ちになる。乳母車が階段を転がり落ちる有名なシーンが現実にならないことを祈りたい。ちなみに、「ローマの休日」にはハリウッドの赤狩りのため、原案者ダルトン・トランボが当時のクレジットに掲載されなかった逸話がある。また、ストーリーはヨーロッパ統合が背景にある。両作品は現在のウクライナ危機を連想させずにはいられない。さて、階段の先に見える港はごく普通の港だが、せっかくだから行ってみよう。黒海というけれど海は少し暗い青という感じ。
階段の頂上にはフランス人リシュリューの像がある。ルイ13世に仕えたリシュリュー宰相の名門家系。1803年、ロシア皇帝アレクサンドル1世に街の長官に任命され、オデーサの近代化に貢献した。フランス帰国後はナポレオン後の王政復古期に二度も首相になっている。
https://www.flickr.com/photos/13476480@N07/51939258221/in/photolist-2n8GgW6-4XMSSp-2naeE4o-a5MQEy
表示 2.0 一般 (CC BY 2.0)
そんなフランス人だが、幸か不幸か現在保護のため砂袋に埋まってしまった。蟻塚みたいになっている。不謹慎かもしれないが、現実離れした姿は少し可愛い。戦争では人道支援が最も重要だが、歴史保存も忘れてはならない。
オデーサ考古学博物館
オデーサ考古学博物館にはスキタイなど黒海北岸の歴史が先史時代から中世にかけて展示されている。コレクションは素晴らしいが、英語表示がほとんどないのが残念だ。今後の改善に期待したい。ちなみに、この博物館には知る人ぞ知る秘密の部屋があるらしい。なんでも旧ソ連時代に集められたコレクションが未だ人知れず眠っているという噂だ。値段のつかないウクライナの金銀財宝が保管されているという……。大袈裟に書いたが、実は館員の案内でしか入れない特別展示室があるだけだ。隠れ扉の鍵を開けた先には、なかなか見られない貴重な品々が! 続きは現地で。
オデーサ・オペラ・バレエ劇場
オデーサ・オペラ・バレエ劇場は、オデーサを代表する建築だ。ウィーンの建築家フェルナーとヘルマーの設計によって1887年に完成。夜は内装も見ながら、芸術を堪能するのもおすすめだ。(https://opera.odessa.ua/)
オデーサでの腹ごしらえ
遅い昼食に、苺が売りらしい店に入った。やはりシーフードが気になったので、苺ドリンクと海老のカクテルとフィッシュアンドチップス風の料理を頼んだ。海老は美味しかったが、殻や髭が喉に刺さり痛い。泣きながら食べた(笑)。
夕食にはタタール・レストランを見つけた。オデーサからはタタール人が多く住むクリミアは比較的近い。当時すでにクリミア共和国として独立及びロシアに編入され、国際的非難を浴びていた。頼んだ物が良くなかったのか、強い印象は残らなかった。それでも、内装や食器のデザインは雰囲気があって楽しめた。
翌日歩いた末に見つけたのが、ジョージア料理店だ。ジョージアは東に中央アジア、西にヨーロッパ、北はロシア、南は中東と文化の交差点。食文化も良い物が混在する。日本人の口に合うので、ウクライナ料理以外を食べたい時は狙い目だと思う。残念ながら写真は撮らなかった。
オデーサ発寝台列車
キーウには寝台列車で戻ることにしていた。オデーサ駅は歴史があり美しい。
予約したのは4人用寝台コンパートメントで満席だった。発車してから少し通路に残っていたが、夜が遅かったので、皆言葉少なで早めに眠りについていた。寝台は狭いが、寝心地は可もなく不可もなし。
今回の紛争で市民がキーウ、オデーサ、リヴィウなどの主要都市を出発したり到着したりする様子が頻繁にニュースに流れている。ウクライナの国旗を連想させる濃紺ブルーに黄色のラインの車体を目にした方も多いのでは。
ウクライナの面積は60.4万平方キロメートルで、日本の1.6倍。思ったよりも大きいので、じっくり回るのは意外と時間がかかる。今回は時間が無く行けなかったが、西部のリヴィウ、東部のドニプロなど魅力的な町がある。何度も訪れたい国の一つだ。
文・写真/千夏優里(オランダ在住ライター)各種メディアにオランダに関する記事を掲載。ウクライナ各地に友人が数人おり、戦争の現状を日時見聞きしている。読者には危機終焉後にウクライナを観光で盛り上げて欲しいと願っている。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。