文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)

ハプスブルク家の栄華を今に残す古都ウィーン。そのカフェ文化はユネスコの世界無形文化遺産に指定され、帝国時代の優雅な雰囲気の中、ゆったりとコーヒーを楽しむ時間を演出する。

ウィーンのカフェの起源は、17世紀の第二次ウィーン包囲で活躍したスパイだったという説は、コーヒー好きの間で知られた逸話だ。絶体絶命のウィーンに希望をもたらした、マルチリンガルと変装を得意とするスパイの数奇な人生に迫り、その伝説に光を当てる。

ハプスブルク時代の栄華を感じさせるカフェ・モーツァルト

第二次ウィーン包囲の攻防

1683年7月、オスマン・トルコ軍は、市壁で防衛されたウィーンの町を完全に包囲していた。皇帝レオポルト一世はウィーンを脱出し、キリスト教国に応援を求めるべく、ドナウ川を上った。その留守を任されたのが、防衛司令官シュターレンベルクだ。

たった1万1千人の兵士と5千人の有志兵に守られたウィーンは、10万人以上のトルコ兵に包囲され、陸の孤島と化していた。一晩に100発もの大砲の玉が撃ち込まれ、防壁の地下には人知らずトンネルが掘られ、市壁や堀は修補したそばから破壊された。

ウィーン市内に残る、トルコ軍が市内に撃ち込んだ大砲の玉

8月には食料や衣料品も底をつきかけ、疫病が流行する。ウィーン市民の解放は急務だったが、救済軍の準備が整わず、シュターレンベルク司令官とウィーン市民たちは、孤軍奮闘を強いられていた。

一方ウィーン市壁の外では、欧州を舞台にした情報戦が繰り広げられていた。フランスとハンガリーはオーストリアの弱体化を狙い、トルコ軍に味方していた。一方、オーストリア皇帝の呼びかけに答えたキリスト教国軍は、ポーランド・リトアニア共和国、ドイツ諸侯(ザクセン、バイエルン、バーデン)そして、フランスに国土を奪われたロレーヌ公国だ。

ロレーヌ公シャルル5世は、一足早くドナウ川の対岸で陣を張りながら、連合軍の集結を待っていた。陸の孤島ウィーンからシャルル5世に連絡を付けることさえできれば、現状を伝え、希望をつなぐことができる。しかし両者の間には、トルコ軍の広大な陣が敷かれ、蟻の子一匹通れない状況だった。

第二次ウィーン包囲のジオラマ。右中央にウィーン、手前のテントがトルコ軍、奥の山がカーレンベルク

命綱はスパイ志願者

トルコ軍に包囲されたウィーン市内には、多国語を操るゲオルグ・フランツ・コルシツキーという男がいた。

1640年頃ポーランド・リトアニア共和国、現在の西ウクライナで生まれたこの男は、10代後半で故郷の村からウィーンにやってきた後、20~30歳代には、オーストリア大使の通訳補佐や公営貿易会社の通訳として、何度もコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に派遣されている。トルコ語とルーマニア語を話すばかりか、ドイツ語、ポーランド語、ウクライナ語、セルビア語、ハンガリー語を操る、語学の天才だ。オーストリアのために働きつつ、トルコやバルカン半島に住んでいた期間が非常に長く、文化や生活習慣にも深く親しんでいた。

陸の孤島ウィーンからトルコ軍の陣を超えて、ドナウ対岸のロレーヌ公シャルル5世に伝令を届けるという任務は、既に複数のスパイが失敗している、非常に難しい任務だ。コルシツキーは多額の報酬と引き換えにこれに志願した。

8月13日に、伝令を手にウィーンを抜け出したコルシツキーと、セルビア人召使ミハイロヴィッツは、トルコ兵の衣装に身を包み、トルコ語の歌を口ずさみながら、トルコ軍のテントが張られている敵陣を通過していく。

ウィーンのコルシツキー通りには、トルコ人の衣装に身を包み、コーヒーを淹れるコルシツキー像が立つ

2日後にドナウ川を越えてロレーヌ公の元にたどり着いたコルシツキーたちは、逆にトルコ兵と間違えられたほど、その変装は完ぺきだったという。二人はウィーン市からの伝令を届けただけでなく、途上のトルコ軍の陣の情報も伝えた後、また2日かけてウィーン市に戻り、援軍が近いことを伝えた。この情報に勇気づけられた司令官は、トルコ軍に屈せず、援軍が来るまで戦い続けることを決定する。

その後も、召使ミハイロヴィッツが何度か命からがら伝令を伝え、援軍の動きを伝えた事が記録に残されている。他にも何人かのスパイが伝令を運んだが、トルコ軍に捕虜にされたり、寝返ったりしたことも多く、コルシツキーたちの功績は非常に大きい。

カーレンベルクの戦い

9月に入り、キリスト教国連合軍が続々とウィーン北部に集結し始める。その最大のものが、ヤン三世(ヤン・ソビエスキ)率いるポーランド軍だ。ロレーヌ公軍や、レオポルト一世率いるオーストリア軍、ドイツ諸侯軍やベネツィア軍を含んだ連合軍は、6~7万人だったと言われている。ウィーン市内で籠城している、1万5千人の兵と8700人の志願兵を足しても、10~30万人と言われたトルコ軍には、まだまだ及ばない。

ウィーン北側のカーレンベルクという山の上に陣取った連合軍は、スパイたちから集めた情報を駆使し、ポーランドの騎兵隊フサリアを先頭に一気に山肌を駆け下り、トルコ軍に奇襲をかけた。勝敗は12時間で決し、トルコ軍は敗退する。

コーヒー豆は誰の物?

トルコ軍が撤退したウィーンでは、コルシツキーは英雄になっていた。多額の報酬を受け取っただけでなく、彼を取り巻く様々な伝説が生み出されたのだ。

そのうちの一つが、「カフェの創立者伝説」だ。敵陣のテントには、袋に入った用途不明の緑色の豆が大量に残っていた。報酬の一部としてこの謎の豆を希望したコルシツキーは、トルコ時代に親しんだ方法で豆を焙煎し、トルコ式コーヒーを淹れた。

こうして生み出されたのが、「コルシツキーがウィーン最初のカフェを開いた」という伝説だ。1980年まで信じられてきた話だが、実際にはアルメニア人ヨハネス・ディオダトが開いたカフェがウィーンで最初だったとされている。その翌年の1686年に、ウィーン包囲で活躍した伝令(スパイ)三人にカフェ開店の専売免許が下され、そのうちの一人がコルシツキーだった。

コルシツキーのカフェは、シュテファン大聖堂のそばの角、写真の左の建物の辺りにあった

しかし、ウィーンのへそシュテファン大聖堂の目の前で、国の英雄が開いたカフェ「青い瓶」は、おそらくどのカフェよりも人気があったことだろう。シュターレンベルク司令官自らが訪れ、トルコ兵の変装をしてコルシツキーが客をもてなした、という伝説も残されている。

コルシツキー伝説はこれだけではない。粉を煮たてて飲むトルコ式コーヒーは、苦くてウィーン人の口に合わなかった。そのため、砂糖とミルクを入れる「メランジュ」という飲み方を考え出したのもコルシツキーである、という話も有名なエピソードだ。

カフェ・ザッハのメランジュ

更に、マリー・アントワネットがフランスに持ち込んでクロサッワンとなったウィーンの伝統的パン「キプフェル」も、コルシツキーの作という話もある。実際のところキプフェルは12世紀ごろから存在したが、月の形がトルコ軍を連想させ、コルシツキー伝説に紐づいてしまった形だ。

ウィーンの代表的なパン「キプフェル」

コルシツキーは、ウィーン中心地の住居で、1694年に50代で亡くなっている。この住居も、ウィーン市が所有し、彼に無料で貸し出していたものだ。まさに生涯英雄の扱いを受けた証である。

この場所に、コルシツキー最期の家があった、と史跡パネルに記されている

* * *

コルシツキーのカフェ伝説の真偽はともかく、彼がウィーンの英雄として語り継がれ、愛されていることは確かだ。今でも、トルコ兵の変装をして、トルココーヒーのトレイを持つコルシツキー像は、ウィーンの街角で市民を見守っている。

文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ会員https://www.kaigaikakibito.com/)。

 

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