文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
イタリアの北東部、アドリア海の北縁に、人口3500人ほどの静かな海辺の田舎町「アクイレイア」がある。ヴェネツィアの東、トリエステのすぐ西にあたり、オーストリアやスロヴェニアとの国境とも近いこの町に、かつては人口10万人を超える古代ローマの要塞都市が存在した。
アクイレイアはどのようにして「第二のローマ」とも称される巨大都市にのし上がったのか、そして、どうしてこの町が、大量の遺跡を残したまま今の姿になれ果てたのか。
ローマ遺跡とキリスト教の歴史と共に、世界遺産の海辺の町の盛衰を追いかける。
「第二のローマ」の栄枯盛衰
隣国のドイツ人やオーストリア人が海を求めて訪れる、イタリアのビーチリゾートの街、グラード。ここから巨大な潟(ラグーナ)を渡った内陸部にあるのが、アクイレイアだ。現在は海から10kmほど離れているこの場所に、2000年前は海岸線があった。
この地域に住んでいたケルト人を追い出して、紀元前181年にローマの植民都市が作られたのが、この町の始まりだ。共和国の北東を防衛する要塞機能を持ち、ローマ兵士が多数移駐してきた。
属州ノリクム(現在のオーストリア南部にあるケルンテン・シュタイアーマルク州)で生産された鉄がここで鋳造されて取り引きされたほか、バルト海との琥珀貿易、ワインの輸出などで、商業が栄えた。アクイレイアでは、1世紀を通じて文化と経済が大きく発展し、「第二のローマ」と呼ばれるようになった。
街道も発達し、現在のオーストリア方面には、北西のインスブルックや北のエンス、北東のクラーゲンフルトに伸び、スロヴェニア方面は、東のリュブリャナや南東のトリエステ経由でリエカへとつながる、交通の要所でもあった。
訪れた皇帝は、アウグストゥス、マルクス・アウレリウス・アントニヌス、コンスタンティヌスなど数知れず、それぞれの皇帝が、戦争や外敵の侵略の度に、破壊された防壁や建造物を再建し、蛮族の脅威に備えた。2世紀にこの町は最盛期を迎え、10万人の人口を擁した。
4世紀、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したことで、この地に大司教座が置かれ、オーストリアやハンガリー、バルカン方面の布教の拠点となり、宗教的にも大きな力を持った。初代司教ヘルマゴラスの名は、オーストリアやスロヴェニアの町の名にもなっていて、この地のキリスト教が中欧に与えた影響は大きい。
そんなアクイレイアの栄華も、異民族の侵略に屈する時代が来る。5世紀にはフン族のアッティラがこの町を完全に破壊し、この時逃げた住民が近隣のグラードやヴェネツィアの基礎を作った。その後7世紀ごろまで、西ゴート族などの侵攻を受けて町は破壊され、古代都市の遺跡の石材が持ち去られた。現在のアクイレイアに、建築の基礎や碑文、像などはあっても、古代ローマ時代の建造物が現存していないのは、そのためだ。
異民族を退けた後もしばらくの間、アクイレイアと新興都市グラードは総司教の座を巡ってライバル関係になるが、11世紀になって再びアクイレイアは、総司教座として絶大な力を持つ。宗教的権威を取り戻し、大聖堂(バシリカ)が再建され、14世紀ごろまで、再びこの地域の宗教上の権威に君臨したのだ。しかし、その総司教座は、ヴェネツィア共和国によって世俗の領土が15世紀に没収され、司教座自体は18世紀半ばに廃止されている。
アクイレイアやグラードを含む地域は、1797年からハプスブルク帝国の一部となる。1870年のイタリア統一後もトリエステと共に、「未回収のイタリア」「オーストリアのリヴィエラ」と呼ばれ、第一次世界大戦後以降イタリアに属している。
ローマ時代と中世に二度の最盛期を迎えたこの町は、現在は静かな海辺の町だ。「アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ」として、1989年に世界遺産に登録されているが、広大な遺跡は未発掘の部分も多く、全貌は謎に包まれている。
失われた古代ローマの都市を歩く
グラードから、車で広大な潟を渡り、約10分でアクイレイアに到着する。車窓からは、巡礼地として有名なバルバナ島の教会が見え、田園風景が広がっている。
アクイレイアの町に入ると特徴的なのが、このフェンスに囲われた敷地だ。中には、無造作に遺跡の基礎や石材の一部が転がり、明らかに発掘調査中の広い土地が目立つ。
ローマの遺跡が気になるが、まずはひときわ目を引く建物、バシリカに足を運ぼう。キリスト教公認後すぐの4世紀に建てられた後、一旦廃墟になり、再び11世紀に再建、14世紀に改築されたという歴史を持つ、中世の総司教座の大聖堂だ。
中に一歩足を踏み入れると、その巨大なモザイク床に圧倒される。床一面のモザイクには、海の魚や、船で漁をする人々、旧約聖書のヨナスの物語などが豊かに描かれている。
そして驚くべきことに、このモザイクは4世紀、ローマ皇帝コンスタンティヌス帝によるキリスト教公認直後に作られたものなのだ。その後全て土で埋められた上に教会が建てられ、20世紀初めに再発見されたため、13世紀以上にわたって地中に隠れていたとされる。西ローマ帝国最大のモザイク画だ。
主祭壇の地下にある、11世紀のクリプト(礼拝堂)のフレスコ画も圧巻だ。左右にモザイク床が見学できる部屋もあり、ローマ帝国最初期のキリスト教の様子と、教会の規模に驚かされる。
こうやってローマ時代と中世を同時に目にすると、バシリカやクリプトが作られた11世紀という時代が、つい最近のことに感じられるくらい、4世紀のモザイクやローマ遺跡に圧倒される。モザイクが描く生き生きとした躍動感や生活感、心を動かす表現力は、時代を超えて古さを感じさせず、目の前に広がっている。
ローマ遺跡でピクニック
バシリカを出て、アクイレイアの街並みを歩いてみる。犬も歩けば棒に当たるように、ローマ遺跡が至る所にあり、逆に現代の家が建っている姿に違和感を覚えるくらいだ。
すでに発掘調査が済んだ部分は、当時の姿がイメージできるように一部再現してあるが、公園のように自由に見学ができるので、遺跡のそばのベンチでピクニック、なんてことも可能だ。
街のいたるところに遺跡の区画があり、神殿、住居跡、市場、川の港、墓地等が発掘され、野外展示されていて、博物館でも、2000を超える発掘物が展示されている。発掘調査中の敷地も広大なため、その調査には今後何年もかかり、10万人規模の古代都市の全貌は、謎に包まれている。
どれだけの規模の遺跡が、発掘されずに眠っているのか。ローマ帝国第二の都市と呼ばれたこの町は、どのような姿をしていたのか。発掘調査が進み、いつか私たちは、その姿を目にすることができるのだろうか。遺跡を前にピクニックをしながら、2000年前の人々の営みに思いを馳せる。
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静かな海辺の田舎町、アクイレイア。この町が2000年前に要塞都市として栄華を築き、巨大なモザイク床を作り、異民族の侵攻で建物が破壊され、その後再び総司教座として返り咲いた歴史を持つことは、実際にその場に立ってみてもにわかに信じがたい。
しかし、その地理上の重要性、文化の豊かさ、遺跡の規模から、この町で暮らしたローマ人や中世初期の人たちの暮らしの一部を、脳内で再現してみることは可能だ。野ざらしの遺跡の中に立ち、目を閉じると、栄華を謳歌した2000年前のアクイレイア人の姿が蘇る。現在よりはるかに賑やかで、繁栄していた町の風景は、訪れるの者の想像力の中にこそある。
文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。