文/印南敦史
『古くて素敵なクラシック・レコードたち』(村上春樹 著、文藝春秋)の冒頭には、次のように書かれている。
僕はいちおう物書きだが、本にはなぜかそれほどの執着はない。しかしレコードに関しては、認めるのはどうも気恥ずかしいのだが、それなりの執着があるみたいだ。(本書「なぜアナログ・レコードなのか」より引用)
深く納得でき、そして「とても村上さんらしいなあ」とも感じた。もちろん一介の読者としての印象にすぎないが、ここには虚飾のない“生身の村上春樹”がいるような気がしたからである。
いうまでもなく彼は世界が注目する小説家だが、少なくともご本人にとって、世間的な評価やパブリック・イメージはあまり意味をなさないのだろう。そして音楽を聴くこと、音楽を探すこと、音楽の話をすることが純粋に楽しいのだろう。
本書を読んでいると、強くそう感じる。
「本当にお好きなんだな」ということが手にとるようにわかるのだ。音楽に対する愛情や好奇心が、行間から滲み出ているのである。好きなものは好きなのであって、そこに理屈は必要ない。
村上さんと音楽との関係を語るうえで避けて通れないジャンルといえば、いうまでもなくジャズである。しかし同じようにクラシックのレコードも、“そこそこ蒐集している”のだそうだ。
中古レコード店に行くとまずジャズのコーナーをチェックし、めぼしいものが見つからなければクラシックのコーナーに移るという。だから“そこそこ”。
ただし、当然ながらそのバックグラウンドに深い知識があるのは明らかだ。本書を読む限り、中高生のころのリスニング体験がのちのクラシックとの接し方のベースになっているのである。
しっかりとした裏づけを感じさせるのは、きっとそのせいだ。
演奏家や作曲者が選択の基準になることはまあ当然だが、ジャケットが素敵なのでつい買ってしまうこともあるし、ただ「安いから」という理由で買ってしまうこともある。ジャズの場合のように「この演奏家のものはコンプリートに蒐集しよう」みたいな系統的な目論見はない。行き当たりばったり、みたいに買い込むケースの方が多い。(本書「なぜアナログ・レコードなのか」より引用)
事実、「中古屋のバーゲン箱で見つけて百円で買ってきた」とか「アメリカの中古屋で五十セントで買った」というような記述がちょくちょく出てくる。もし大作家がバーゲン箱をチェックしているところに遭遇したら面食らうだろうが、しかしそれが蒐集家の密かな楽しみであることはよくわかる。
また、いわゆる「名盤」に興味がないといい切るところにも共感できる。世間的な評価や基準がときとして自分にあてはまらないことがわかっているからだというが、それこそ個人的な音楽体験によって培われてきた感覚だ。
いいかえれば、(意図的ではないにせよ結果的に)“村上春樹的視点”が貫かれているからこそ、本書には凡百のガイドブックにはない説得力が生まれているのである。
だから僕の集めているレコードは傾向がかなりばらばらだ。そこには統一性というものがほとんど見受けられない。(本書「なぜアナログ・レコードなのか」より引用)
ただし基本的な好みは当然あるから、フルトヴェングラーのレコードはほんの数枚(それもすべて伴奏)しかなかったり、そうかと思えばシベリウスの交響曲第5番はLPだけで15枚も持っていたりする。
そんなところにも好感が持てるし、「うちにあるレコードは」というフレーズが頻繁に出てくるので、読んでいると、村上さんのご自宅のレコード棚の前でお話を伺っているような気分にすらなってくる。
さらには、「このレコードに耳を澄ませていると、まるで大阪のうどん屋で素うどんを食べているときのような、不思議な安心感を感じる」などという表現も出てくるものだから、なおさらそう感じる。
そんな村上さんは、クラシック・レコードに関しては、ジャケット・デザインにかなりこだわるのだそうだ。よくいわれるように、ジャケットの魅力的なレコードは中身も優れている場合が多いというのがその理由。
だから「一般の(まっとうな)クラシック・ファンからは驚かれ、呆れられるかもしれない」と書かれているが、そうではない。必ずしも一般的ではなく、「結果的に集まってしまった」レコードを中心に紹介しているからこそ、さまざまな意味で意外であり、そして新鮮なのだ。
しかも紹介されているのは1950年代から1960年代半ばにかけてのレコードが中心なので、「こんなレコードがあったのか」と驚かされたりもする。事実、私に見覚えのあるレコード・ジャケットはわずか数枚しかなかった。
したがって本書には「読む心地よさ」のみならず、「ジャケット写真を眺める楽しさ」も備わっているのである。
ところで私もアナログ・レコードを集めているのだが、クラシックにだけは手を出すまいと意識してきた。クラシックのアナログ盤は、一度ハマると抜け出せない“沼”に違いないという思いがあったからだ。
だが本書に刺激され、とうとうそっちにも手を出してしまった。「1枚200円以内」という自分なりの基準を守ってはいるが、ともあれ入ってみれば、沼もなかなか楽しいものであることがわかった。
いま気にかかっているのは、そんなわけで今後増えていくであろうと思われるクラシック・レコードを、はたしてどうやって収納すべきかという問題である。
『古くて素敵なクラシック・レコードたち』
文/印南敦史 作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『書評の仕事』(ワニブックスPLUS新書)などがある。新刊は『「書くのが苦手」な人のための文章術』( PHP研究所)。2020年6月、「日本一ネット」から「書評執筆数日本一」と認定される。