文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
オーストリアの西隣に、リヒテンシュタイン公国という小国がある。ハプスブルク家の重臣で、現在も中東欧に膨大な地所を保有する、リヒテンシュタイン侯爵家の所領の一部がそのまま一つの国を形成したものだ。
リヒテンシュタイン家の始祖フーゴは、12世紀の人物だ。ドイツからオーストリアにやってきて、辺境の村の商業や漁業を栄えさせ、君主たちの信頼を得て城の建設を許され、その城の名を自らの家の名前とした。
その才覚と世渡りの上手さは、彼自身の出世だけでなく、オーストリアという国家の黎明期をも支えた。波乱の中世の時代に生き、その身一つで大出世を遂げたフーゴの人生と、リヒテンシュタイン家の出生の秘密に迫る。
謎の男フーゴ
リヒテンシュタイン家の始祖フーゴは、現在のドイツ、バイエルン地方の有力貴族フォーブルク家の家臣として、12世紀始め頃にオーストリアにやってきた男だ。中世のこの時代は記録が乏しく、全て史実の裏付けがあるわけではないが、限られた修道院や古城に残された記録を辿り、地名や伝説との整合性を調べると、歴史は次第に輪郭を露わにしていく。
当時のオーストリアは、ハプスブルク家の前の君主バーベンベルク家が辺境伯に任命されていたが、フォーブルク家をはじめとして、ドイツの貴族も多くの所領を持っていた。このような遠方の領主は、所領の管理のために家臣を派遣したのだが、こうしてペトロネルという土地を任されたのが、フーゴだった。
ペトロネルは、ウィーンから東へ40km、ドナウ河を含む三つの川に挟まれた、隣国スロバキアとの国境に近い町だ。歴史をさかのぼると、ローマ人が建設した軍事都市カルヌントゥムもこのすぐ近くにある。交通上の要所であると同時に、ハンガリーやスロバキア方面からの異民族の襲撃を真っ先に受ける可能性のある、辺境の地だった。
このような地を任されたフーゴは、その才覚をめきめきと発揮していった。ドナウ河や周辺の森での漁業権、狩猟権を駆使し、町の広場に大きな市を立てて交易を推進し、川の交通を管理した。こうしてペトロネルの町は瞬く間に発展し、フーゴは、フーゴ・フォン・ペトロネルと呼ばれるようになった。
時代の波に乗った築城と改名
折しも、フーゴの主君フォーブルク家は、オーストリアから手を引き、ドイツの足元を固める動きに出ていた。それに呼応するように、オーストリア辺境伯バーベンベルク家レオポルト三世は、フォーブルク家の家臣たちを味方に引き入れる動きを始めた。この時代の流れの中、フーゴの身に二つの大きな変化が起きる。有力者との結婚と、城の建設だ。
フーゴと結婚したとされているのは、バーベンベルク家と縁続きで、ウィーン南方30キロに住む有力貴族、シュヴァルツェンブルク家の跡取り娘だ(注:後のオーストリア貴族シュヴァルツェンベルク家とは異なる)。この結婚により、オーストリア辺境伯レオポルト三世は、フーゴから見ると義父の異父弟となった。フーゴは、有力者の娘と結婚することで、妻の土地を受け継いだだけでなく、君主の親戚になったのだ。
そしてほぼ同時期に、フーゴは築城を始める。ハンガリーからオーストリア南部にかけて広がるパンノニア平原が、広大な「ウィーンの森」にぶつかる縁は、「温泉ライン」と呼ばれ、戦略的に非常に重要だ。この温泉ラインに沿って城を建設することで、東方から来る異民族からウィーンを守る計画があり、フーゴもそのうちの一つの城の建設を任されたのだ。
建設に使われた「明るい色(Licht)の石(Stein)」から、「リヒテンシュタイン城」と名付けられたこの城は、1120年頃から1140年頃の間に築城された。フーゴはそれまで、管理地であるペトロネルや、仮住まいのメードリングなどの地名を名字として名乗っていたが、築城中に初めて、「フーゴ・フォン・リヒテンシュタイン」としての記録が残っている。後の欧州の大貴族、リヒテンシュタイン家誕生の瞬間だ。
リヒテンシュタイン城を築いたフーゴは、1142年、オーストリア辺境伯ハインリヒII世(ヤソミゴット)により、自分が管轄していたペトロネルの地を、ニーダーエースタライヒ州で初めて自由所有地として任されるという偉業も成し遂げる。これは、他の君主の干渉を受けないフーゴの直轄地として、町を領有できることを意味する。まさに当代一の大出世だ。
こうしてフーゴは、辺境の地から頭角を現し、時の有力者と縁続きになり、戦略的要所に城を築き、この城の名を自らの名字としただけでなく、自分を成功に導いたペトロネルの領主となった。大貴族でもない謎の男が、一代でこれだけのことを成し遂げたのは、その商才と才覚と世渡りの上手さがあったからだろう。
【フーゴの死後。次ページに続きます】